出自と辺境任務
- 盧琰、字は錫圭、淄州淄川の人。父の浚は右諫議大夫。盧琰は太平興国8(983)年、進士に挙げられ歴城主簿に解褐、大理評事・安吉県知事を歴任、太常丞に3回遷り並州通判となった。至道中、太常博士を加えられ、咸平2(999)年、開封府判官に選ばれ推官の李防と共に任じられた。真宗は宰相に「人材は得難く、実際に試してこそ見極められる」と述べ、謝拝の日に特に殿上に召し天府(開封府)の事務の煩多さを慎重に扱うよう諭し緡銭を賜った。獄が空になったことで奨励の詔を受け、工部員外郎・河北転運副使に遷った。当時北辺が未だ安定せず調発される軍儲は道が絶えなかったが職務を果たし、召還され秩を進め刑部に転じ金紫を賜り再び任地に赴いた。祁州の築城の役を専ら管掌したところ、契丹が入寇し車駕が澶州に行幸したため、盧琰は定州から従軍し大名に至り単騎で行在に赴いた。召見され慰問された。
- 子の士宗は当時隰州推官であったが特に大理寺丞に遷らせた。契丹との和議成立後、盧琰は6年の在任を経て帰任を求め許され、労功として吏部員外郎・三司三勾院判官となった。宋摶が契丹への使いに派遣された際、戸部副使を権知した。東封が議論されると京東転運使を権知して頓所の営造に赴き、戸部郎中を加え三勾院判官を再び務めた。大中祥符2(1009)年、侍御史知雑事を兼ね数月後に三司度支副使を授かった。汾陰祭祀の年、鮑中和と共に留守司を判じ三司で吏部郎中を加えられ右諫議大夫を拝命し永興軍府を知り、5年、再び河北転運使となった。盧琰は吏職に勤め至る所で幹練さを聞かれ、常々「官は五品の服、三品を天が与えなければ寿を保てぬ」と親旧に語っていた。翌年、病を得て中使に太医を遣わして診させられ、6年に卒す、年59。当時、盧琰の母は80余歳で健在であったため、上はこれを憐れみ士宗を太常博士とし特に懐州知事とした。また次子の秘書丞士倫を太常博士とし喪が終わるまで給禄させた。士倫は工部郎中・度支副使に至った。士宗は別に伝あり。