宋史卷三百七 列傳第六十六 魏廷式

出自と初任

  • 魏廷式、字は君憲、大名宗城の人。若くして法学に明るく、かつて趙州に遊学し監軍魏咸美の官舎に寄留した。その官舎には西堂という凶事の因縁のある建物があり、咸美は魏廷式に胆気があると見て住まわせたが無事であった。京師に出た際は咸美の弟咸信が館舎を提供し同族として厚遇した。太平興国5(980)年、及第し朗州法曹掾に解褐、転運使李惟清がその吏才を認め桃源県知事に推薦、将作監丞に遷った。端拱初、著作佐郎・潁州通判に改まり、淳化2(991)年、李昌齢が審刑院を判じるに際し魏廷式が刑律に明るいとして詳議官に推薦された。しばしば奏対し、太宗はその明弁を悦んで太子左賛善大夫に遷らせた。廷臣の考課を初めて実施した際、樞密都承旨趙鎔・李著と共に三班の職務を勾当し、越王の誕生日には礼物の贈呈を命じられた。主客員外郎に抜擢され三司都勾院を判じ河南東道判官に転じ戸部員外郎に改まり利州知事に転じた。

蜀の乱鎮圧と晩年

  • 李順が反乱を起こすと陝西・益州路転運使を命じられた。入朝して太宗に「事があれば中書に申し出よ」と言われたが、魏廷式は「臣は3千7百里外から早馬で参り機事を陛下に直接申し上げたく、宰相のために来たのではない」と述べ、召見して方略を問われ意にかなったため銭50万を賜り任地に戻された。乱が平定されると寧州知事を命じられたが赴任前に大理寺判官として召された。至道初、河朔を巡り獄事を裁決、また宋州・潭州知事を歴任した。湖南の地は肥沃で民は訴訟を好み、複雑な財産争いも巧妙に立ち回る者は判じ難かったが、魏廷式はこれを直裁した。吏民は皆服した。吏部員外郎に転じ桂州知事に、工部郎中を歴任、真宗即位後に刑部に改まった。王継恩が罪に問われた際、共同で審理させられ一晩で獄事が決着した。審官院・通進銀台封駁司を知り右諫議大夫を拝命し審刑院を知り、涇州知事に出た。咸平2(999)年、卒す、年49。子の攝太常寺太祝舜卿を太祝に、禹卿に同学究出身を賜った。魏廷式は至る所で厳明を称され剛果で敢言であったが、性格は険を好み人を陥れることを喜ぶ傾向があり、士君子はその口を憚りその行いを卑しんだ。