晁逈
- 字は明逺。世は澶州清豐の人であったが父の佺の代から彭門に移った。逈は進士に挙げられ大理評事として岳州録事參軍を歴任、將作監丞に改め殿中丞に稍遷したが囚死罪の事件で入囚(誤って軽く扱う)した罪により官二等を奪われ、將作丞に復し徐州・婺州の税監督を歴任、太常丞に遷った。真宗即位で宰相の呂端・参知政事の李沆が推薦し右正言・直史館に擢され、咸平新書五十篇を献じ、さらに理樞一篇を献じた。召試を経て右司諫・知制誥として尚書刑部判となった。帝が北征し雍王の元份が京師を留守した際、判官を加えられ右諌議大夫に遷り、翰林學士に進んだ。
- まもなく審官院知として明德・章穆二園陵禮儀使を兼ね国史を同修、大中祥符元年の貢舉を知り、泰山封禅・汾陰祭祀を経て太常詳定儀注司を務め、尚書工部侍郎に累遷し契丹への使者から帰り『北庭記』を奏した。史館修撰を加え通進銀臺司知として玉清昭應宮頌を献じ、その子の宗操も続いて景靈宮慶成歌を上げたことに帝は「逈父子が同時に歌頌を献ずるとは、搢紳の間の美事である」と述べた。史書が完成すると刑部侍郎に擢され承旨に進み、当時朝廷は礼文の事を修めていたため詔令の多くは逈の手から出た。
- かつて夜に召され対応した際、帝は内侍に燭を持たせて院に送らせた。盛夏には宿直を蠲じるようにされたが、逈は三五日に一度院に至ることを故事に反すると辞退し、秋を待って直に戻ることを聴された。兵部侍郎に遷り分司西京を請うと、特に工部尚書・集賢院學士に拝され西京留司御史臺判、一子を河南の官に賜り養いに就かせた。仁宗即位で禮部尚書に遷り臺にあること六年、しばしば老いを理由に致仕を請い太子少保として全俸・季節ごとの賜りを學士並みに得た。
- 天聖中、逈が年八十一となった時、太清樓の宴に召され舞蹈を免じられた。子の宗慤が知制誥・侍従として同じく宴に招かれ、逈は御史中丞の南に座り宰相と同じく御飛白(帝の書)大字を賜り、罷宴後の恩賜は甚だ厚かった。太子少傅に進み、後に再び延和殿に召され対応した際、帝は洪範の雨晹(陰陽の天候)の応について訪ねると、逈は「近年、変災が相次いでいるのは天が陛下を警戒する所以です、陛下には王事を修飭され天心に応じるべきです、そうすれば乱を転じて祥に変えられましょう」と対えた。まもなく斧扆・慎刑箴・大順審刑・無盡燈頌の五篇を献じ、病を感じ人事を絶ち医薬を屏け冠服を整えて卒した。享年八十四。罷朝一日、太子太保を贈られ諡は文元。
- 逈は吐納養生の術に優れ釈老の書に通じ、経伝の学説を援用し一家の説を成した。性は楽易で寛簡、道を服し礼正を履み、貴勢にあっても屈することがなく、官にあり事に臨んでも情に流されて物を害することはなかった。真宗はしばしばその好学・長者を称えた。楊億はかつて「逈の作る書命(詔勅の文)に過褒(褒めすぎ)はなく、代言(帝に代わって述べる)の体を得ている」と評した。経史の疑義を質正することを好み字類の標括(分類)にも通じた。ある術者が命について語った際、逈は「自然の分は天命である、天を楽しみ憂えないのは命を知ることであり、これに推理し常を安んじるのは委命(天命に任せる)である。何ぞ未然を逆計する必要があろうか」と述べた。著書に『翰林集』三十巻・『道院集』十五巻・『法藏碎金録』十巻・『耆智餘書』『隨因紀述』『昭德新編』各三巻がある。子は宗慤。