方偕
- 字は齊古。興化莆田の人。年二十で進士に及第し温州軍事推官となった。歳の飢饉で民が軍に隷属して廩食を得ようとしたが州は擅に募ることができずにいたところ、偕は刑獄提点の呂夷簡のもとに赴き相談した。夷簡は「民が流亡に迫られているのに早く募らなければ聚まって盗となる」と述べ、偕はこれに従い軍に籍された者は七千人に及んだ。後に汀州判官に遷り建安縣知県を権知した。縣は茶を産し毎年社日(春の祭日)に先立ち民数千を鼓譟(太鼓を打ち鳴らす)させ山の周りで陽気を助けさせる慣行があったが、偕は農事を害するとして奏罷させた。
- 秘書省著作佐郎に遷り福清・資陽縣知県を歴任、尚書屯田員外郎に累遷し御史臺推直官となった。澧州の逃卒が民家に傭われて自活していた際、ある日「摩駝神を祭るために毎年十二人殺している」との誣告があり州は一族三百人を逮捕して獄に繋いだまま久しく決着しなかった。偕は詔でこの事の劾を命じられ、殺害者の主名を疏いて按験させたところすべて根拠のないことが判明し事は解決した。誣告者は死罪で論じられた。知雜事の龎籍が偕を御史裏行に推薦し侍御史に再遷、南京鴻慶宮が火災に遭った際、偕は漢の原廟(別殿)廃止の故事を引き再建しないよう請うた。
- 元昊が寇し塞門・鄜延副總管の趙振が逗撓(怠慢)で出撃せず救援しなかった事件で詔で偕が按じるよう命じられ法により斬罪相当であったところ、偕は「兵が寡なく敵わないので出撃しても益がない」と奏し振はこれにより死を免れた。開封府判官に転じ、江南の安撫にあたり、三司が毎年乳香・綿綺を下州郡に配分していたのを偕は罷めるよう奏した。鹽鐵判官に転じ兵部員外郎・兼御史知雜事に遷り、罪により監当(税監督)に貶された者を監司が勝手に親民官に差すことのないよう言上した。大理寺判に改め度支副使に擢され天章閣待制・江淮制置發運使として杭州知州となり刑部郎中に遷った。偕は吏事に長け治杭に能声があったが飲酒を好み酣宴(宴会)に節度がなかった。数ヶ月で暴中風となり太常少卿・分司西京に転じ光禄卿に遷り卒した。