曹頴叔
- 字は秀之。亳州譙の人。初め名は熙といったが、夢で官府に赴いた際に頴叔という名を見たためこの名に改めた。進士に及第し威勝軍判官・渭州軍事推官を歴任、御史中丞の蔡齊が臺主簿に推薦し大理寺丞に改め、韓億が亳州知州となり僉書節度判官事に招き通判儀州となった。韓琦・文彦博がその才を推薦し䕫州路轉運判官に徙った。䕫峽(三峡地方)は淫祠(俗神信仰)が盛んで人が病になっても医を頼らず専ら神事に頼っていたが、頴叔はことごとくこれを禁じ医薬を教えた。
- 陝西路刑獄提点に転じ、夏人が納款(帰順)した際、戸部副使の夏安期・轉運使の柳灝とともに戍卒・吏員の冗多な者を減じることを詔された。開封府判官として、御史の宋禧が衞士の獄を内侍省で鞫問した際、禧が判断できず獄が成立すると内侍が禧に自ら牒を作らせようとしたが、頴叔は「禧は制使であり命令を辱めている」として法に処すよう請うた。元昊が死んだ際、夏国祭奠使として直史館を除され鳳翔府知府として益州路轉運使に徙り度支副使権となった。
- 儂智髙が嶺南を寇した際、朝議は閩中(福建)の兵備が久しく弛んでいるとして頴叔を天章閣待制・福州知州に擢し、右司郎中に累遷し陝西都轉運使となった。慶暦以来、陝西で大鉄銭が鋳造されており民の盗鋳が絶えず、三司が榷鐵(鉄の官営専売)の議を上げた際、頴叔は「鉄銭は軽くて価値が重い、久しく行うべきではない、まして官が自ら鉄を独占するべきか、鋳造を罷め諸郡の鉄銭を三鉄銭で銅銭一枚に相当させるべき」と述べこれに従った。
- 両川では和買絹(強制的な絹の徴発)が陝西の兵に給され蜀人はこの煩雑な徴発に苦しんでいたが、頴叔は毎年本路の緡銭五十万を出させ軍衣の余りと交換することにし、両川の民は初めて煩わされなくなった。龍圖閣直學士に進み永興軍知軍となったが、年老いて次第に昏耄(老いてぼんやりすること)となり事が滞りがちで人にしばしば嘲笑された。官のまま卒した。