宋史卷二百九十六 列傳第五十五 呂祐之

経歴

  • 呂祐之は字を元吉といい、済州鉅野の人。父呂文賛は本州録事参軍。太平興国初に進士に及第し大理評事・洋州通判、右賛善大夫・泰寧軍節度判官、天雄軍に移り殿中侍御史に抜擢、西蜀の獄事審理を経て貝州知事。右補闕・直史館・吏部南曹通判、起居舎人。
  • 端拱中、呂端の高麗使に副使として随行、内庫銭五十万を借りて装束を整えたが、帰路の風濤で舟が転覆しかけた際、得た貨財を全て海に投じて事なきを得た。「海外覃皇沢詩」十九首を献じて太宗に称賛され、借財を免除された。
  • 淳化初、戸部勾院判、三館職の分置に伴い趙昂・安徳裕と共に昭文館直、知制誥・金紫、同知貢挙。東野日宣という人物を妻族として推薦した縁で陳州の獄事に連座し降格されたが、太宗が班簿を閲する際に祐之の名を見つけ「前科は贖罪させればよい」として再登用した。
  • 至道初、右諫議大夫・金紫・審官院知院、襄州知事・寿州知事、真宗即位後は給事中を経て再び襄州知事・昇州知事、襄陽を再任、吏部選事を掌り通進銀臺司知院、呂文仲と共に工部侍郎・翰林侍読学士に至る。侍読・侍講の選抜は極めて厳格であったが、選ばれた七人の中に名を連ね、その名を秘閣に刻石した。
  • 純謹な長者で趨競を好まず、目立った評判はなかったが顧問には応じられた。呂文仲が病で職を離れると祐之も集賢院学士に出され、共に刑部侍郎に転じ、景徳四年(1007年)卒去、享年六十一。著書『集』三十巻。