宋史卷二百九十六 列傳第五十五 潘慎修

経歴

  • 潘慎修は字を成徳といい、泉州莆田県の人。父潘承祐は閩に仕えたのち南唐に帰属し李璟に仕えて刑部尚書に至り致仕。慎修は父の任で秘書省正字となり水部郎中・起居舎人を兼ねた。開宝末、宋軍の南唐征討の際、李煜(後主)に随行し弟の李従鎰に伴って入貢、和平を求めて懐信駅に留まった。
  • 捷報が邸に届き、吏が従鎰に賀を勧めた際「国はまさに亡びようとしている、賀すべきではない」と述べ、群臣が賀を述べる中、従鎰は表を奉じて罪を請うたため、太祖はその礼を得た対応を嘉し、中使を遣わして慰め供応した。李煜の帰順後、慎修は太子右賛善大夫に任じられ、李煜自身が記室として推薦した。
  • 李煜の死後、太常博士・膳部倉部考功員外郎を歴任、寿州通判・開封県知事・湖州梓州知事。淳化中、秘書監李至の推薦で直秘閣を兼ねた。囲碁を好み、太宗にたびたび召されて対局し「棊説」を献じた。要旨:碁の道は恬黙にあり取捨を急務とし、仁は全うし、義は守り、礼は変化に従い、智は兼ね備え、信は克つと説き、十要を挙げてその義を明らかにした。
  • 倉部考功郎中を経て韓援と共に淮南巡撫使、咸平中には邢昺の両浙巡撫使副使、修起居注。景徳初、老齢を理由に外任を求めたが真宗は儒雅を惜しんで秘府に留め、記注職のみを解いた。右諫議大夫・翰林侍読学士に擢され澶州行幸に扈従したが寒疾を得て先に帰り、翌年正月卒去、享年六十九。
  • 危篤の際も精神は乱れず、陳彭年に遺奏の草稿を託し、子の恩沢を求めず「主恩に報いられなかったこと」だけを恨みとした。子の潘汝士は大理評事、潘汝礪は奉禮郎。風度醞籍で博く文史に通じ道書を好み、清談を得意とした。江南の旧臣が李煜を「闇懦」と評する中、慎修は「李煜がそこまで暗愚なら、なぜ十余年も国を保てたのか」と反論し、真宗はこれを「温雅にして本を忘れず、臣子の操を得ている」と評した。著書『集』五巻。子の潘汝士は工部員外郎・直集賢院に至った。