宋史卷二百八十八 列傳第四十七 任中正

出自と初任

  • 任中正、字は慶之、曹州済陰の人。父の任載は右拾遺。中正は進士及第し、池州推官・大理評事・邵州通判・大府寺丞・濮州通判を歴任。
  • 翰林学士の銭若水の推薦で秘書省著作佐郎に遷り、大名府通判・転運使を務めた。陳緯が陝西に転じる際に中正を後任に推挙し、太宗は「朕自ら知る」と述べて秘書丞・江南転運副使に召した。
  • 中正は体格が長身で、太宗は大きな笏を選び、内臣に長身用の緋衣を取らせて賜った。任地では豊作で租賦・平糴とも余剰があり、発運使の王子輿が全て京師へ回そうとしたが、中正は「東南は年五百余万を輸すが江南の産出はその過半を占める。今年余剰があっても凶作の年には数が足りず民の患いとなる」と止めた。

弾劾と昇進

  • 監察御史・両浙転運使に抜擢され、飢饉に際し詔を待たずに官倉を開いて救済した。普州の盛梁の獄を法通りに裁いたが、梁と親しい者が中傷し、荊湖転運使に出された。
  • その後、左司諫・直史館、梓州知事に遷り、枢密直学士として張詠に代わり益州を治め、5年間張詠の政策を守り蜀人に便益をもたらした。審刑院知事、并州知事を経て給事中に遷り開封府権知となった。
  • 大中祥符9年、尚書工部侍郎・枢密副使。馬知節が枢密院を知り、中正は同知院事に改まる。翌年曹利用が枢密使となり再び副使、さらに兵部侍郎・参知政事に進んだ。仁宗が東宮にあった時は右丞兼賓客を兼ね、工部尚書に遷った。仁宗即位後、兵部尚書を拝命。

丁謂事件と晩年

  • 中正はかねて丁謂と親しく、丁謂が左遷される際、周囲が誰も庇わぬ中、中正だけがこれを弁護した。丁謂は太子賓客に降格されて鄆州知事となり、中正も尚書兵部員外郎・三司塩鉄勾院に降格された。弟の中師も右正言から降格された。
  • 母が老いたため曹州に転じ、礼部尚書に遷り、卒した。尚書左僕射を贈られ、諡は康懿。
  • 母が禁中に参内した際、陳彭年・王曾・張知白の妻らとともに真宗に謁見し、真宗は中正の母を班首とし、着座を賜った。中正は親に孝を尽くし、平生は質素であったが飲食は極めて豪華であった。

任中師――経歴

  • 中師、字は祖聖。進士及第し秘書省校書郎試を経て平陸県知事。真宗が汾陰祭祀の際、陳堯叟が河中府を判じ祭祀を統括した折、中師は文書起草を辟召され著作佐郎に累遷、千乗県・襄邑県を知り、秘書丞に改まった。張知白の推薦で右正言となったが、兄中正の左遷とともに太常博士に降格され宿州の酒税監となった。
  • まもなく応天府通判、曹利用の辟召で群牧判官、滑州知事、開封府判官、尚書度支郎中・直史館、澶州知事を歴任。太常少卿・直昭文館として広州を知り、赴任の翌日、慣例で諸祠廟に謁するとされたが、官署に淫祠があったため撤去を命じた。市舶使を兼ね(市舶に使を置くのはこれに始まる)、諫議大夫・尚書刑部判事に戻り、集賢院学士を加えた。再び澶州に赴くはずが未着任のうちに龍図閣直学士・并州知事に進んだ。
  • 益州知事となった際、転運使の韓瀆が薪・蒭・蔬果にまで課税していたのを中師はことごとく免除した。康定年間、任布が河陽を守り上書して事を論じ、帝が用いようとしたところ、呂夷簡は「中師の才は任布に劣らない」と推薦、二人はともに枢密副使に召された。翌年北京を建てる際、中師が建設を統括して給事中に進んだが、河東宣撫の命は実行せず、郡への転出を求め尚書礼部侍郎・資政殿学士として永興軍知事となった。内地への転任を求め陳州を知り、翌年上書して「臣は老いた、家は本来曹州の出、曹州を守りたい」と願い、曹州知事に転じた。
  • 戸部侍郎に改まり、翌年致仕を願い太子少傅を拝して致仕、少師に進み卒した。太子太傅を贈られ、諡は安恵。中師は性格温和で平生は自ら質素倹約を守り、晩年は養生の術に通じて「大塊翁」と号した。