出自と初任
- 周起、字は万卿、淄州鄒平の人。生まれつき下半身が豊かで、父の周意はこれを異とし「この子は必ず我が家を興す」と言って起と名づけた。幼くして聡明で成人のごとくであった。衛州知事の時事に坐して官を削られたが、起はわずか13歳で京師に赴き父の冤罪を訴え、父はついに旧官に復した。
- 進士に挙げられ将作監丞・斉州通判を授かり、著作佐郎・直史館に抜擢され、戸部度支判官に累遷。真宗の北征に従軍糧草を担当し、右正言・知制誥として吏部流内銓を判じた。東京留守判官・登聞鼓院判官を経て泰山封禅に随行、御史中丞を摂して考制度副使となり、通過する地の官吏の能否・民の利病を調査上聞した。東封の帰途、近臣らが功徳を頌える中、起だけは安を居るを戒めとすることを進言した。
昇進と真宗との交流
- 金部員外郎・集賢院判事。糾察刑獄司の新設に伴い起が任命され、すでに判決した事案で冤罪のもの、及び官吏が不当に拷問した者について訴えを受理するよう請い、許可された。
- 枢密直学士に抜擢され開封府権知。起は判断が明晰で滞りなかった。真宗が視察に来て労いの言葉をかけた際、起は「陛下は昔ここに潜龍していました、正寝を避けさせてください、西廡に住みます」と願い出て許され、その堂は「継照」と名づけられた。
- 殿中で真宗に奏事した折、ちょうど仁宗が誕生し、帝は「卿は朕が喜んでいることを知っているか、我に子ができたことを賀すべきだ」と言い、禁中に入って金銭を懐に探り出して起に賜った。
- 三班院を担当し登聞検院を兼判、汾陰祭祀に従い河中府知事を留守、永興・天雄軍に転じ、至る所で功績を挙げ、幾度も書を賜り褒め称えられた。右諫議大夫・并州知事に3度遷り、給事中を拝し枢密院同知事、礼部侍郎に進んで枢密副使となった。
晩年
- かつて寇準と同僚の曹瑋の家で酒を飲み、他の客が次々と辞去する中、起だけは寇準と共に大酔し夜漏が上がってから帰った。翌日、参内して罪を認めて謝罪すると、真宗は笑って「天下無事、大臣が共に酒を飲むのに何の過ちがあろう」と言った。
- 起は元来寇準と親しく、寇準が左遷されると起も戸部郎中に降格され青州知事、さらに太常少卿に降格され光州知事となり、その後秘書監に遷り揚州・杭州を歴任、応天府に転じ、再び礼部侍郎に復して登聞鼓院を判じたが、病のため頴州知事を願い、陳州・汝州に転じて卒した。礼部尚書を贈られ、諡は安恵。
- 起は性格が慎重で、奏事や禁中での応答は語り終えるとすぐに草稿を焼いたため、その発言を外部の者は知らなかった。家に蔵する書は一万余巻に及んだ。起は書をよくし、弟の超も書をよくして古今の書法・体法をまとめ『書苑』十巻を編纂、官は主客郎中に至った。起の子の延荷は孝友で聞こえ官は殿中丞、延雋は雅で厚く官は太常少卿に至った。