宋史卷二百八十七 列傳第四十六 陳彭年
陳彭年(字は永年)、撫州南城の人。幼くして学を好み博聞強記で知られ、雍熙二年に進士及第。地方官を経て真宗朝で儀制典礼に通暁し、大中祥符年間には封禅の儀注詳定や『冊府元亀』修纂に携わり、のち参知政事に至った。王欽若・丁謂に付き従い典礼を専断したことは後世の評で批判された。
生涯
陳彭年、字は永年。撫州南城の人。父の省躬は鹿邑令。彭年は幼くして学を好んだが、母は一人の子であることを愛して夜読を禁じたため、彭年は密室に灯を篝って母に知られないようにした。十三歳で「皇綱論」万余言を著して江左の名士から賞賛された。唐主李煜がこれを聞き宮中に召し入れ、子の仲宣を彭年に学ばせた。金陵が平定されると彭年は徐鉉に師事した。太平興国年間、試場において進士に挙げられ、当時科挙受験生の間で優れた評判があった。京城の大酺に際して驢馬に乗って出遊し賦を作ろうとし、東華門から闕前に至るまでにすでに数千言を口ずさんでいたという。しかし佻薄で嘲咏を好んだため、しばしば宋白に落とされた。雍熙二年、ようやく及第し江陵府司理参軍に調されたが、死刑囚を監決する際に脅した罪で江陵主簿に改められた。灃州・懐州の推官を歴任し、懐州では知州の喬惟岳に重用された。折しも樊知古が河北転運使となる際に親戚として嫌疑を避け澤州に移り、母の喪により免職した。御史中丞王化基がその才を推薦し衛尉寺丞に改まり祕書郎に遷り大理寺の詳断官となったが事に連座して湖州の塩税監督に出され、まもなくまた官を停められた。彭年は元々貧しく喪に服し職を免ぜられた間は僕人の傭賃販売に頼って生計を立てていた。真宗即位後、再び祕書郎となった。喬惟岳が海州刺史となり蘇州・寿州を知る際、いずれも表して彭年を通判に推薦した。咸平三年、しばしば上疏して事を言上し学士院に召試され祕書丞に遷り閬州を知ることになったが赴任前に金州に改まった。四年、上疏して「事には小さいながら大きな功を建てられるものがあり、理には身近でも遠大な計となるものがある。それが五つある。一に諫官を置くこと、二に法吏を選ぶこと、三に格令を簡素にすること、四に冗員を省くこと、五に公挙を行うこと、これらは実に経世の要道であり治世に至る坦途である」と述べた。折しも詔で賢良方正を求める際、翰林学士朱昂が彭年をその候補として上聞したが、彭年は貧乏を理由に任期満了までの猶予を求めた。景徳の初め、代わって帰り直祕閣となり、杜鎬・刁衎がその博識を推薦し直史館・崇文院検討を兼ねることを命じられ、さらに潘慎修に代わって起居注を修め緋魚を賜った。「大宝箴」を献じ、その中で「二儀の内で最も霊なるものは人、民の中で最も大なるものは君である。民は既に畏るべきであり天もまた親しむものはない。輔けるところは徳であり帰するところは仁である。自ら恭して下を御し、輝光は日々新たになる。載籍にこれあり、謀猷を備えて陳べる。内には万姓を綏め外には百蛮を撫す。治乱の始まりは言動の間にあり、これを観れば易く、これに処するはことに難しい。これによって先哲は艱を投げかけることを喩え、いやしくも未来を慮ることができれば、防閑して求めるべきである。逆耳の言に悪はなく、顔を犯すことがすでに多いのはむしろ賢者に多い。既に庶にして富み教化がこれによって施される。慈倹の政は富庶の基であり、鰥寡孤独は人の悲しむところであり、号令を発するにはこれをまず及ぼすべきである。黄髪鮐背は心に実に多く知るものがある。左右の侍従はどうしてこれに及ばぬことがあろうか。言をあまねく百辟に及ぼせばみな天工に代わる。もし虚授がなければ大中を建てることができ、慎んで簡ぶには至公に頼るべきである。人を知るは哲であり、徳を聴くは聡である。才は元来備わりにくいが徳も少なく同じである。葑菲を捨てず杞梓を捐てなければ、扶けずとも自ら直く、これは蓬が麻の中にあるのに似ている。揀ばずとも見えるは金が沙の中にあるのに似ている。参わって顧問に備え必ず忠邪を弁ずべきである。献替してこれを補益すれば涯りがない。草沢に自ら匿れる者もまた国華がある。ここに髦士を訪ねれば朋家を拒むことができる。三章の立つや庶民は程を作す。欽哉恤哉、これをもって刑を措くことができる。七代の建てるや姦孽はこれを平らげる。仁を本とし義を本とすればこれをもって兵を弭めることができる。これを斉一の礼と言い、また好生教無類とも言う。誠より明らかにすれば宗廟社稷はこれを恭をもって饗す。宮室苑囿はこれを豊をもって誡む。春蒐秋獮は三農を廃せず、石を撃ち石を拊せば神をして悦ばしめてこそ功を成す。国を治めるに政をもってすれば従わないものはない。済々たる多士がこれを用いれば光あり。硜硜たる小器はこれを謀るに臧からず。忠言は益をもたらすことこそ、どうして膏粱に劣ろうか。六芸を楽しみとすれば笙簧に後れることなどない。賢を任じて貳するなかれ、堯はこれをもって昌え、過ちを改めて吝まず、湯はこれをもって王たり得た。六合は至って広く万彚は多い。風俗は一様ではなく嗜欲は互いに摩する。朽索を馭するがごとく決河を防ぐがごとくせよ。左契をこれ執り六轡を遂に和す。徳をもってこれを導けば民は羅にかかることを免れ、位に懈らざれば俗はすなわち戈を偃せる。先王の訓えは咸く然らざるものはなく、吾君の治もまたこれに取る。小心翼翼、終日乾乾たれば三霊は鑒を降し百禄は愆ることがない。これにより率土は永く光天を戴き、巍巍たる洪業は億万斯年に至るであろう」と述べた。まもなく『冊府元亀』の修纂に参与し、三年、右正言に遷り龍図閣待制を充て金紫を賜った。これに先立ち諫官・御史が職を挙げて事を言上するよう詔された折、彭年だけが侍御史賈翶とともにしばしば上奏建言し弾劾があった折には真宗が中書に籍を置いてこれを記録させた。刑部員外郎を加え晁迥とともに知貢挙を務め、有司に考試条式を詳定するよう請い、真宗は彭年に戚綸とともに定めさせ、多くの旧制を改め専ら防閑に努めさせたため、その取る者はもう文行の優劣で選ばれなくなり一日の技だけで判定されるようになった。請託は絶えたが、甲等に入る者に必ずしも宿名の士でない者もあった。大中祥符年間、封禅建立が議論された折、彭年は儀注の詳定に参与し「包茅」の用いる意味を辨正することを上言した。礼が成ると秩を進めて工部郎中とし集賢殿修撰を加え、三年、兵部郎中に改まり龍図閣直学士に遷り右諫議大夫として祕書監を兼ねた。詔で食堂に賜り前次を編纂させ、太宗の御集を賜り勲上柱国を賜った。折しも奏対の際、真宗は「儒術の隆盛はその応が実に大きい。国家の隆替は皆これに由来する。秦が衰えると経籍の道が息み、漢が盛んになると学校が興った。その後王朝が改まっても風教は一貫していた。唐は文物が最も盛んであったが、朱梁以後は王風がしだいに衰えた。太祖・太宗は弊俗を大いに変え、この文を尊重された。朕は先業を継いで謹んで聖訓を導き、礼楽を交え挙げて儒術で化成を成しているのは、二后の遺した仁徳の致すところである。また君の難しさは聴受にあり、臣の易からざるは忠直にある。その君が寛大をもって下に接し、臣が誠明をもって上に奉じ、君臣の心がともに正に帰し道に直きて行い、至公に相い遇うのは天下の達理であり先王の成憲であり、まるで手のひらを指すように容易であるのに、誰がこれを難しいと言うのだろうか」と語ると、彭年は「陛下の聖言は精緻であり、天下に訓えを知らしめるに足ります。躬ら睿思を演べこれを篇翰に著されることを願います」と答えた。真宗は「崇儒術」「為君難」「為臣不易」の二論を作りこれを示した。彭年はさらにこれを輔臣に示して国子監に刻石するよう請うた。六年、翰林に召され学士を充て龍図閣学士を兼ね国史を同修した。彭年はかつて王旦に謁見しようとしたが旦は辞退して会わなかった。翌日、向敏中に謁見した際、敏中は彭年が上げた文字を旦に示すと、旦は目を閉じてこれを読もうとせず「これは符瑞を興建して進取を図るに過ぎない」と言った。真宗が亳州の太清宮に祭祀した際、丁謂が経度制置使となり彭年をこれに副せしめ、また謂とともに礼儀院を同知した。礼が成ると給事中を加え、時に謂が秩を進めることを固辞したため彭年もこれを辞したが許されなかった。また天書同刻玉副使となり、国史が完成すると工部侍郎に遷った。九年、刑部侍郎・参知政事を拝し礼儀院を判じ会霊観使を充てた。天禧の大礼では天書儀衛副使となり、また参詳儀制・奉宝冊使を務めた。正月九日、真宗の朝天書に侍し太廟に赴こうとして退いて中書の閣中で厠に立ち寄った折、めまいで倒れ、肩輿で家に帰され中使を遣わして医師を挟んで診療させ日夜見舞われた。兵部侍郎に進み奉を辞任することを求めたが許されず、二月、卒した。年五十七。真宗は自ら臨んで涕泣し長く悲しみ、また彭年の住まいが貧しく傷んでいるのを見て何度も嘆息した。廃朝され右僕射を贈られ諡は文僖。子の佺期は大理寺丞、孫の彦先は太常寺奉礼郎に録された。真宗は前後彭年に御製歌詩あわせて六篇を賜り、彭年の妻が謁見に来た折には彭年の像を示し賜り物は甚だ厚かった。彭年は性が敏給で博聞強記、唐の四子を慕って文の体制は繁靡であった。貴顕に至っても奉養は貧素の頃と変わらず、得た俸給は専ら書籍の購入に充てた。大中祥符の頃、王欽若・丁謂に付いて朝廷の典礼にすべて参与し、その儀制沿革・刑名の学はすべて熟知していたので、たとえ前世に見られない例であっても必ず推し引き依拠して成し遂げた。そのため政務の大小は日ごとに諮問され応答は該博で滞ることがなく、いずれも真宗の意にかない、内閣に昇進すると李宗諤・楊億もいたが、宗諤が卒し億が病んで退くと彭年が専任することとなった。事務が輻輳して形神ともに消耗し、ついに挙止を誤るまでになり冠服を顛倒させ家人がその名を覚えられないほどであったという。詔を奉じて『景徳朝陵地里』『封禅汾陰三記』『閤門客省御史台儀制』を同編し、また詔を受けて御集・宸章集・歴代婦人文集を編纂した。著した文集百巻、『唐紀』四十巻がある。
史論
楊礪は龍飛の遇に恵まれ崇顕の位に至ったが、自らその兆しを夢に協うと考えるのみで、忠言善政は何ら述べるべきものがない。ただ官を棄てて母に仕え科名を自慢しなかったことは取るべき点があろう。宋湜は文才に富み博識で名声は人主を動かすほどであり、李沆と同時に命を受けたことすら遠く及ばなかったとはいえ、善を楽しみ施しを好んで士類がこれに帰したこともまた尊ぶべきである。王嗣宗は家を治めて睦を保ち政治は称すべきものがあり、至る所で速やかに淫祀を絶ったこともまた人の難しいところであるが、剛愎で文才に乏しく王旦・王曾を害し寇準とも折り合いが悪かったことなど、その他は見るべきものがない。李昌齡は劇務を重ねて大用の段階に至ったが、邪に党し貨に狥って終身の汚点を残したことは実に醜い。趙安仁は事を言上するに時弊に切実で契丹への返書も祖宗の規式を失わず、また凶器(兵)の言をもって敵を挫き戦を勝ちにしないよう戒めたことは才弁の臣と言えよう。その孫君錫は元祐の反正の折、蔡確・章惇の官復帰の命を格したことは、生まれた家の名を辱めないものに近い。陳彭年は辞藻によって重用され表を上げ箴を献じ儀制に詳しく通じて嘉すべきに見えたが、王欽若・丁謂に付いて志を爵禄に溺れさせ小人の仲間となったことは、なんと重く嘆かわしいことか。