宋史卷二百八十三 列傳第四十二 夏竦
出自と生い立ち
夏竦、字は子喬、江州徳安の人。父の承皓は太平興国の初め平晉の策を上って右侍隷となり、大名府に配された。契丹が内寇した際、承皓は間道から兵を出して夜に契丹と遭遇し、力戦して死んだ。崇儀使を贈られ、竦は潤州丹陽県主簿に録された。竦は生まれつき聡明で学を好み、経史百家から陰陽律暦、さらには仏老の書に至るまで通暁しないものがなかった。文章は典雅で華麗であった。賢良方正科に挙げられ光禄寺丞に抜擢され、台州通判となった。直集賢院に召され国史編修官となり、三司都磨勘司を判じ、累遷して右正言となった。帝が亳州に行幸した際は東京留守推官となった。仁宗の初め、慶国公に封じられていたころ、王旦がしばしば竦の才を言上し、資善堂で書を教えるよう命じられ、まもなく同修起居注となり、玉清昭応宮判官として景霊宮・会真観の事を兼領し、尚書礼部員外郎・知制誥に遷った。国史が完成すると戸部に遷り、景霊宮が完成すると礼部郎中に遷った。
夫婦不和と地方左遷
竦は楊氏を娶ったが、楊も筆札に巧みで駆け引きに長けていた。竦が顕貴になると内寵が多くなり、次第に楊と不和になった。楊は嫉妬深く、弟の媦とともに竦の陰事を暴いて訴え出た。さらに竦の母と楊の母が互いに罵り合い、揃って開封府に訴え、府は事を上聞し御史台に下って糾弾された。竦は職方員外郎に左遷され黄州を知ることとなり、二年後に鄧州に、さらに襄州に移された。ちょうど飢饉の年、竦は公廩を大いに開いたがなお足りず、州の大姓に呼びかけて粟を出させ二万斛を得て、これにより四十余万人が救われた。仁宗即位後、戸部郎中に遷り、寿・洪三州に移された。洪州は鬼を尊び巫覡が多く民を惑わしていたので、竦は管内で千余戸を調べ上げ、農業に還らせて淫祠を破壊した。上奏により江浙以南でこれを禁絶する詔が出された。
太后期の再起と姦邪の評
竦は才略が人に勝り、進取に急で、交結を好み、術策を用いて事に応じては裏返しにするため、世は姦邪と見なした。太后臨朝の際、『真宗実録』の修纂に関わりたいと上疏したが認められなかった。母の喪に服する間、密かに京師に至り、中人の張懐徳を内応者とし、宰相王欽若がこれを大いに助けたため、喪に服したまま起用され、知制誥・景霊判官・判集賢院となった。左司郎中として翰林学士・勾当三班院を兼ね、侍読学士・龍図閣学士を兼ね、さらに訳経潤文官を兼ね、諫議大夫に遷り樞密副使として国史を修めた。給事中に遷り、当初武臣の賞罰に法がなく吏が高下をつけて姦をなしていたのを、竦は先例を集めて定例とし、事はすべてこれに照らして処理された。参知政事に改まり、祥源観使、賢良等六科を増設し、百官の転対を復し理検使を設けたのはいずれも竦の発案であった。宰相呂夷簡と折り合いが悪く、再び枢密副使に転じ、刑部侍郎に遷った。国史が完成すると兵部に進み、まもなく尚書左丞に進んだ。太后が崩ずると罷免されて礼部尚書となり襄州を知ることとなり、潁州に改まった。京東で飢饉が続き青州に移され安撫使を兼ねたが、翌年安撫を罷めて刑部尚書に遷り応天府に移った。宝元の初め、戸部尚書として三司使に入った。趙元昊が反すると奉寧軍節度使・知永興軍として便宜の処置を許された。忠武軍節度使・知涇州に移り、帰って永興軍を判じ陝西経略安撫招討を兼ねた。宣徽南院使に進み、陳執中と兵事の議論が合わず、鄜州への駐屯を命じられた。
西夏戦での議論、楊偕との論争
当初竦が涇州にあった時、朝廷は龎籍を遣わして事を計らせ、竦は上奏して次のように述べた。かつて李継遷が背いて逃れ屢々朔方を寇し、至道の初め洛苑使白守栄らが四十万の重兵を率いて糧を護送したが、賊が浦洛河で糧卒とともに遭難し、守栄はかろうじて身を免れた。呂端は麟府・鄜延・環慶の三路から兵を発し平夏を襲いその巣穴を突こうとしたが、太宗はこれを難じ、のち李継隆・丁罕・范廷召・王超・張守恩の五路に討伐を命じた。継隆は罕と合流して十日行軍しても賊を見ず、守恩は賊を見ても撃たず、超と廷召は烏白池に至って諸将が期を失し士卒が疲弊して次々に引き返した。当時継遷は継捧が朝に入った後、曹光実に襲撃されて逃げ窮していたが、それでもなお数年討ち滅ぼせなかった。先帝は追討の弊を鑑み、辺境の吏に烽候を謹み厳しく守らせ、賊が来れば追い払うのみで追撃はしなかった。しかし拓跋の境は霊武陥落以来、銀・綏の地を割棄して以来、朝廷の威霊を借りて服属させていたのは河外の小羌に過ぎない。まして徳明・元昊が相継いで猖獗を極める今、継遷の窮迫と元昊の富実を比べれば勢いの差は明らかであり、先朝の連勝の士卒と当今の関東の兵の勇怯も明らかであり、興国期の訓練された将と辺境未経験の将の巧拙も明らかであり、継遷が平夏に逃げ潜んだのと元昊が河外に窟穴を構えているのとでは地の勢いも明らかである。もし兵を分けて深く侵入すれば糧が続かず、賊境で戦えば速戦が有利で、進めば賊は矛先を避け退けば敵はその後を追う、老兵に糧を費やすことは深く憂うべきである。もしその巣穴を窮めようとすれば大河を渡らねばならず、大船を急に用意することは難しい。もし浮嚢や梗木を連ねて渡ろうとすれば、我が軍が半渡の時に賊が勢いに乗じて掩撃してくるだろう、いかなる計でこれを防げるか。臣は主客の利を較べず攻守の便を計らずに追討を議論するのは良策ではないと考える、として十事を条陳した。当時辺境の臣の多くは征討を議論し、朝廷もこれに傾いていたが、竦は出師は得策でないと述べた。まもなく涇原・鄜延両路の兵で進討することが詔されたが、ちょうど元昊が納款を求め、范仲淹が鄜延の兵を留めるよう請うたため、涇原の兵も動かず、結局中国の軍は塞外に出なかった。竦の上げた十事は、一に強弩を教習して奇兵とすること、二に属羌を懐柔して藩籬とすること、三に唃厮囉父子に力を合わせて賊を破らせるよう詔すること、四に地形の険易遠近・砦柵の多少・軍士の勇怯に応じて屯兵を増減すること、五に諸路が互いに応援するよう詔すること、六に土人を募って兵とし各州一二千人をもって東兵に代えること、七に弓手・壮丁・猟戸を増やして城守に備えること、八に辺境の小砦に芻糧を積まないこと(賊の攻撃が急なときは小砦を棄てて大砦に入り兵力を保全する)、九に関中の民の連座による過失は粟の入納により罪を贖うことを許すこと(銅一斤を粟五斗として辺境の計に充てる)、十に辺境の冗兵冗官を減らし騎軍を減らして輸送の負担を軽減することである。当時これらはかなり採用された。土人を兵とする募集の令が下ると、楊偕が「西の兵は継遷の時に比べ十のうち七、八増えており、県官は供給に困窮している。いま州ごとにさらに一、二千人を増やせば年費は計り知れなくなる。もし士卒を訓練し精鋭にして選りすぐった将帥に方略を求めさせれば、自然に寡をもって衆を撃ち、一をもって百に当たることができる」と上奏した。竦は「土兵の訓練で東兵に代えるというのは虚言である。徳明が納款して以来、東兵さえ代えられないのに、いわんや今日においてをや」と述べた。朝廷が竦の議論を偕に下すと、竦は「陝西の防秋の弊は東兵に勝るものはない。東兵は山に登るのに慣れず寒暑にも耐えられないのに、驕慢と怠惰が習い性となり、廩給は至って厚い。土兵は慣れ親しんだ土地を守り、山川道路をもとより熟知しており、年ごとに莫大な芻糧を節約できる。かつ小民を集めて飢餓や盗賊化を免れさせ、東兵を東に帰して京師を衛らせるのは万世の利である。偕の寡をもって衆を撃つという主張はほぼ虚言である」と奏した。偕はさらに「古の将帥が深く異域に入った例として、霍去病はわずか軽騎八百を率いて大将軍から数百里離れて赴き利を得て斬獲は多大であった。また万騎を率いて烏盭を越え遫僕を討ち狐奴を渉り五王国を経て焉支山を過ぎること千余里、皋蘭の下で合戦し楼蘭王を斬り候王を虜とし昆邪王子を執らえ休屠の祭天金人を収めた。趙充国もまた万騎で先零を破り、李靖は驍騎三千で突厥を破り、さらに精騎一万で陰山に至り首千余級を斬り男女十余万を虜として頡利を捕らえて献じた。漢以来、少をもって衆を撃った例は数え切れない。竦は涇原で城壁に拠り険阻に依って来れば防ぎ去れば放つのみで、出師したことがない。竦は敗北を恐れ、兵が少ないことを口実にしているだけだ」と上奏した。竦の言う土兵はそれぞれ郷土を守るというのは、古来「散地」と呼ばれるもので、家に近いためかえって離散しやすいことを言うのだ。近い例では、閤門祗候の王文恩が出師して敗北した際、土兵はみな逃げ散ったが東兵はわずか二百人で敵兵を多数殺した。これによって兵の強弱は東西によるものではなく、将に謀があるかないかによることが分かる。今、辺郡は東兵と土兵を併用しているが、もし東兵をすべて罷めるならこれも得策ではない。古人も「隴西の民に勇怯があるのではなく、将吏の統治の巧拙が異なるのだ」と言っている。今辺境防衛の東兵は月に米七斗五升を受け、土兵は二石五斗を受けている。竦が東兵の廩給が至って厚いと言うのは、まったく事実を知らないのだ。竦はまた土兵を訓練して東兵に代えると言うが、土兵数万を募るにも訓練には二、三年かかっても未だ効果が出ないうえ、精兵でさえ敗走を恐れるのに、急に訓練しただけで勝てるはずがない、と述べ、竦の議論はついに退けられた。竦は本心では朝廷にとどまることを望んでいたが、西の事に任じられると躊躇し回避することが多く、たびたび兵権の解除を請い、河中府を判じるよう改まり、蔡州に移った。慶暦年間、樞密使に召されたが、諫官・御史は代わる代わる、竦が陝西にあって臆病で力を尽くさず、辺事を論じるたびにただ衆人の言を並べるだけで、勅使が督促に来て初めて十策を陳べるようなことをした、と非難した。かつて辺境を巡視した際には侍婢を中軍の帳下に置き、軍変を招きかねなかった。元昊はかつて竦の首を得た者に銭三千を与えると布告したが、これほど侮られていながら今また用いるのでは辺将の体面が地に落ちる、また竦は詐りを好み権謀を用い姦邪険悪で呂夷簡と折り合いが悪かったが、夷簡はその人物を恐れて同列に引き入れることをしなかった。かえって退けられたのちに推薦したのは宿怨を晴らすためであった。陛下が政事に励む中、最初にこのような不忠不誠の臣を用いてどうして治を求められようか、と論じた。折しも竦がすでに国門に至っていたため、言者の論議はやまず、入見させないよう求めた。諫官余靖もまた、竦は表を重ねて病を理由に辞退していたのに召しを聞くとすぐに駅を継いで馳せてきた、もし早く決断しなければ竦は必ず面対を強く求め、恩を敍べて感涙するだろう、さらに左右の者が助力すれば聖聴が惑わされる、と述べた。上奏が重なり、その日のうちに詔で竦を鎮に帰すこととなった。竦自身も還節を願い出て亳州を知ることとなり、吏部尚書に改まった。この年のうちに資政殿学士を加えられた。竦が国門に至った際、帝は弾劾の疏を封じてこれを見せていた。亳州に至って上書し、万言をもって自ら弁明した。再び宣徽南院使・河陽三城節度使として并州を判じることとなり、宦者を復置して走馬承受とすることを請うた。翌年、同中書門下平章事を拝し大名府を判じ、さらに翌年召されて宰相となる詔が下ったが、諫官・御史はさらに「大臣は和合してこそ政事が修まる。竦は先に関中で執中と議論が合わなかった。共に事に当たらせるべきでない」と論じ、樞密使に改まり英国公に封じられた。河北を四路に分けることを請うた。親事官が夜、禁中に入って乱を起こそうとした事件で、皇城司を領する者はすべて連座して追われたが、楊懐敏のみは官を降されたが入内都知として留任した。言者は竦が懐敏と結んで庇ったのだと非難した。折しも京師で同日に五度の落雷があり、帝がちょうど便殿に座していたところ翰林学士張方平を急ぎ召して、「夏竦の姦邪がこのような天変を招いたのだ。彼を出すべきだ」と告げ、河南府を知ることに罷められた。まもなく本鎮に赴き、兼侍中を加えられて明堂を饗し、武寧軍節度使に移り鄭国公に進んだ。錫賚は輔臣らと将相が外にある際、大礼があれば賜われるようになったのは竦から始まる。まもなく病により帰り卒した。太史・中書令を贈られ諡は文正とされたが、劉敞が「世は竦を姦邪と言うのに諡を『正』とするのはよくない」と述べ、諡を「文荘」に改めた。竦は文学によって身を起こし、当代に名を馳せ、朝廷の大典策には度々起用され、古文や奇字にも広く通じ、夜には指で肌に文字を描いて覚えたという。文集百巻。地方官として治績があり、里中に条教を作って保伍の法を立てたことで盗賊が発生しなくなったが、人々は煩わしさに苦しんだ。軍を治めるのはことに厳しく、たとえ疾病死喪に至るまで手厚く慰撫した一方、平気で誅殺した。かつて龍騎の卒が辺郡に戍していて州郡を略奪し誰も止められなかったところ、密かに竦に告げる者があった。当時竦は関中にあり、その者の到着を待って詰問し、ほとんど誅殺し尽くした。軍中は大いに震え、その威略の多くはこの類であった。しかし性は貪欲で商販を行い、并州にあった時は僕に貿易をさせたが侵盗されると杖殺した。家財を巨万に累積し、自身の生活は特に奢侈で多くの声妓を蓄え、居所では常に僚属を互いに疑い合わせて陰でその落ち度を掌握させた。家人に対してもまた同様であった。
夏竦の子・安期
子の安期、字は清卿。父の任により将作監主簿となり、試験に召され進士出身を賜り、累遷して太常博士となり、提点荊湖南道刑獄に抜擢された。開封府推官を経て判官に移り、三司塩鉄勾院を判じ、京西転運使として出た。盗賊が管内で起こり州県を略奪し、光化軍の戍卒が相継いで叛乱し、両者が合流しようとしたが、安期は将吏を督励して捕縛斬殺しほぼ鎮圧した。河東転運使に移り、累遷して尚書工部郎中となり、江淮発運使に移り、三司戸部副使に入った。元昊が納款して西辺の兵が罷まると、陝西に赴いて諸路経略安撫司と辺費の削減を議論し、多くの吏員を省き役に堪えない辺兵五万人を淘汰することを上奏し、天章閣待制に抜擢され陝西都転運使となった。河北に移り兵部郎中に進んだ。竦が樞密使であったころ、安期の移遷官の還付を請い、淮浙の一郡を求めたため工部郎中・江淮発運使とされた。永興軍を知ることに移り、龍図閣直学士・吏部郎中・知渭州に進んだ。弓箭手を選抜して驍勇な者一万人を得て歩兵とし、さらにその半数を騎兵とし戦陣の法を教えたことにより、土兵は他路に勝るようになった。また塞下の閑田を籍し人を募って耕作させ、年に数万斛の穀を得てこれを備蓄に充て、「貸倉」と名付けた。右諫議大夫に遷り樞密直学士に進み、延州に移ることになったが、任地に至る前に父の喪に服し、服喪明けに進んだ職を辞退して龍図閣直学士兼侍読・提挙集禧観に復し、学士として延州を再び知ることとなった。州の東北は山に阻まれ城郭がなく、虜騎がしばしばこれに乗じてきた。安期はここに至ると大いに築城を始めた。当時はちょうど暑さの盛りで士卒に怨言があったが、安期はますます規模を広げ、数百歩に及ぶよう命じ、「あえて文句を言う者は斬る」と部下に告げ、自ら工事を督励して一月足らずで完成させた。元昊が国境画定を求めた際、朝廷は使者を遣わして安期に問おうとしたが、安期は「これは王の使者を煩わせるまでもない。衙校で処理できる」と答え、議論は決着した。急な病を得て卒し、詔により中使を遣わしてその喪を護送させ帰らせた。安期は父の世資に乗じながらもかなり才によって自ら励んだので、朝廷はしばしば重用したが、学術がないのに経筵に侍ろうとしたことは世に譏られた。その奉養・声妓の贅沢は父に劣らなかったという。
史論
王欽若・丁謂・夏竦は、いずれも世に姦邪と目された人物である。真宗の時、海内は治まり文治は調和していたので、群臣は帝の意に従うことに忙しく、封禅の議は丁謂によって成り、天書の欺瞞は王欽若が端を開いた。いわゆる「道をもって君に事える」とはこのようなものであろうか。夏竦は陰謀を巡らせ人を猜疑し、事を仕組んでは進めた。ひとたび政府に居を得れば、次々に人を排斥した。それはどれほど得失を恐れていたことか。欽若は贓賄を吏議に問われながら罪を免れたのは幸運であったに過ぎない。しかし悪をかばい正しい者を貶め、危うく国家を敗るところであった者たちだと言うべきである。