宋史卷二百七十八 列傳三十七 馬全義・馬知節(子元)・雷徳驤(善行)・雷有終(道成)・雷孝先(子思)・雷簡夫(太簡)・王超・王徳用(元輔)

馬全義

  • 幽州薊人。少年で撃剣・騎射を学び、十五歳で魏の帥范延光の帳下に隷属した。延光が叛くと晋祖がこれを討ち、延光は城を挙げて降ったため、全義もそのまま内附した。
  • 禁軍に補せられたが志を得ず出奔。後漢の乾祐年間、李守貞が河中を鎮すると召されて帳下に入った。守貞が叛くと周祖がこれを討ち、全義は屡々敢死の士を率いて夜襲をかけ多くの死傷を与えた。守貞は貪欲で無謀、猜疑心も強く、全義の献策を用いなかった。城が陥ると姓名を変えて逃亡した。
  • 周の広順初、世宗が澶淵を鎮すると全義はこれに仕え、世宗に従って入朝した。周祖に召見され殿前指揮使に補され、「この者は仕える主に忠実で、かつて河中でわが軍を挫いたこともある」と左右に語った。
  • 世宗即位後、右番行省に遷り、高平の戦、淮南征伐の功でそれぞれ散員指揮使・殿前指揮使に昇進し、右番都虞候となった。恭帝即位後は鉄騎左第二軍都校・播州刺史を領した。
  • 宋初、内殿直都知・控鶴左廂都校・果州団練使を歴任。李筠討伐に従軍、筠は澤州に退いて堅守したため攻めあぐねた。太祖が食を賜い策を問うと、全義は「急攻すべし、緩めれば奸を長じるのみ」と答え、太祖もこれに同意し急襲。全義は敢死の士数十人を率いて城壁を攀じ登り、矢で腕を貫かれ流血しつつも矢を抜いて奮戦し、城を陥落させた。虎捷左廂都校・睦州防禦使に昇進。李重進討伐にも従軍し、控鶴・虎捷両軍を率いて後殿を務め、平定後の論功で功績が最も多く、龍捷左廂都校・江州防禦使に改められた。
  • 病に倒れ、太祖は太医を遣わして診させ、密かに「病が癒えれば河陽節度に任じる」と諭したが、病は篤く、数日後叩頭して謝すのみで没した。年三十八。検校太保・大同軍節度使を追贈された。子に知節がいる。

馬知節(子元)

  • 字は子元。幼くして父を失う。太宗の代に蔭により供奉官に補され、この名を賜った。十八歳で彭州の兵を監し、統率が厳格で老将のように衆に畏敬された。潭州の兵を監した際、太守何承矩が文雅で吏治を飾るのを慕い、折節して読書に励んだ。
  • 雍熙年間、博州で兵を護る任にあり、契丹侵入時に君子館で我が軍が敗れたが、知節は事前に城を修繕し兵器を整え糧秣を蓄えていたため、契丹軍来襲時も備えありとして引き上げさせた。
  • 定遠軍知事に転じた際、朝廷が河南十三州の民に河北への輸送を課そうとしたが、転運使樊知古との協議で知節は「腐った紅粟でも選別すれば六七割は使える」と進言し、五十万斛を得て諸屯に分配、河南の労役を省いた。
  • 民が城中に避難した際、盗んだ首飾りで捕らえられた者を護軍がただ笞打って放免しようとすると、知節は「内寇に苦しめられて来たのに、ここで内寇に遭うのは許しがたい」と斬罪に処した。
  • 深州・慶州の知事を経て西京作坊使。梓州知事の際、李順の乱で劉継恩と共に討伐に赴くが、継恩は勢いを恃んで専断し、知節を疎んじて彭州守備に回し老弱兵三百のみを与えた。賊衆十万の攻撃に力戦、士卒多く死す中「賊の手に死ぬは壮夫にあらず」と横槊で囲みを突破。翌日援軍と合流し再び賊を打ち破った。太宗は「賊は多く我は少ないのに、知節はよくこれを支えた」と称賛し、益州鈐轄・益漢九州都巡検使・内園使に累進。
  • 韓景祐の部下劉旰が牙兵を脅して乱を起こし州県を陥落させると、知節は三百の兵で追撃、蜀州で交戦して旰を邛州に敗走させた。「賊が邛州を破れば必ず渡江して迫る、疲弊に乗じて急撃すべし」と進言し、方井鎮でこれを殲滅した。
  • 咸平初、登州刺史・秦州知事となる。秦州では羌の酋長の親族二十余人を二紀(二十四年)以上抑留していたが、「羌人も人であり帰郷を望まないはずがない」として全て解放、羌人はこれに感謝し二度と塞を犯さなかった。銀坑が涸れても課税が除かれず主吏が破産しても償えないため三度上奏して免除を得た。西上閤門使・益州知事兼本路転運使となり、舟運での破産者続出を改めるため官府による督察に改め、蜀人は水害を免れた。
  • 延州知事兼鄜延駐泊部署に転じ、上元節に敢えて灯を掲げ連夜宴楽して寇に虚実を測らせず退かせた。鎮州の程徳玄の政が乱れると代わって知事となり、澶・魏など六州の糧を定武に輸送させる詔に対し、「輸送は敵を益するのみ」として舟車の到着地でそのまま徴収させ、寇は得るものなく逃げた。
  • 澶淵行幸の際、王超が数十万の兵を擁して真定に逗留し進まないのを書簡で叱責、超はようやく出兵したが中渡に橋がないと言い訳した。知節は既に材木の手配を済ませており一夜で橋を架けた。景徳中、定州知事、東上閤門使・枢密都承旨を経て簽書枢密院事に抜擢。契丹と盟約済みで大臣が祥瑞を語る中、知節だけは「天下安泰でも戦を忘れてはならぬ」と常に説き、自ら「あと五、七年は駆使に堪える、辺境に事あらば従軍したい、副都部署の名と良馬・軽甲があれば十分」と述べ、帝はこれを可とし銅鉄鎖子甲を製して賜った。宣徽北院使・兼枢密副使に進む。枢密使王欽若の人柄を軽んじ、廷議で欽若が寵愛される中でも臆せず面と向かって指摘し続けた。
  • 大中祥符七年、潁州防禦使・潞州知事。天禧初、天雄軍知事に転じ宣徽南院使・知枢密院事に召拝されるが病により辞職を願い出、彰徳軍留後・貝州知事兼部署となる。赴任前、真宗はその病弱を憐れみ留鎮を命じた。上党・大名の民が争って出迎える中、間もなく没した。年六十五。侍中を追贈、諡は正恵。将家の子として慷慨、武力智謀を自負し、読書を好み賢者と交わり、豪傑と論じては剛直で憚らなかったため人々に正直と知られた。

雷徳驤(善行)

  • 字は善行、同州郃陽の人。後周の広顕徳三年に進士に及第、磁州軍事判官を初任とし、右拾遺に召され三司判官・緋魚を賜った。顕徳中、隨州各県の民田・屋税を均定し公平と称された。
  • 宋初、殿中侍御史・屯田員外郎・判大理寺。属官と堂吏が宰相趙普に阿って刑名を私に増したため、太祖に直訴しようとしたが対面が叶わず講武殿に直接赴き激しく訴えた。太祖の詰問に「陛下が日が暮れても食事もされないため憤慨した」と答えたが、帝は激怒し極刑にしようとするも、後に赦して商州司戸参軍に落とした。
  • 当地の刺史は徳驤を元省郎として賓客の礼で遇したが、後任の奚嶼は宰相の意を迎えて倨傲に庭参させたため、徳驤は堪えかね怨言を漏らした。嶼はこれを恨み、徳驤が誹謗の文を作ったとの讒言に乗じて呼び出し、密かに家人から証拠を騙し取り拘束、上奏した。太祖は罪を貸して霊武に流した。
  • 数年後、子の有鄰が登聞鼓を打って趙普の不法を訴え、趙普はこれにより河陽に出鎮した。徳驤は秘書丞に召され、御史台三院事・吏部南曹を分判。開宝七年、同知貢挙。太祖崩御に際し呉越国告哀使を務め、帰還後は戸部員外郎兼御史知雑事、職方員外郎・陝西河北転運使、礼部・戸部郎中、度支判官を歴任。
  • 太平興国四年、太原征伐の車駕に従い太原西路転運使。六年同知京朝官考課、兵部郎中。七年に公務の累で本曹員外郎に降格、懐州知事に出るが間もなく旧官に復し両浙転運使に任じられる。子の殿中丞有終も淮南転運使となり、父子同日の任官は縉紳の栄誉とされた。右諫議大夫に遷る。
  • 雍熙二年帰朝し同知京朝官考課。帝は宰相に「先日班籍を閲したが、河北転運使には群臣の履歴を知る者がいない」として、徳驤に京朝官の履歴・功過を記録させ、召見の際にこれを踏まえて才を択び任用し、良吏には引見を喜ばせ瑕疵ある者には恥じさせて懲勧の道具とした。
  • 端拱初、戸部侍郎。趙普再任の宣制の日、班中で笏を落とし、慌てて田里帰還を願い出た。太宗は召見して慰め白金三十両を賜り、考課の職を罷めて奉朝請とした。尚書省での議事中、酒に乗じて起居員外郎鄭構を盗人と罵倒し、御史に弾劾されて御史台で取り調べを受けたが、帝は月俸罰のみで釈放した。趙普が西洛に出鎮した後も、帝は終始徳驤を庇護した。
  • 淳化二年、婿の如京副使衛濯が有鄰の子で秘書省校書郎の孝先の内乱(近親相姦)を訴えた。帝は日頃徳驤を憐れんでいたが、この醜聞を公然と暴き、孝先を法吏に付さず除名のうえ均州に配流するに留めた。徳驤は教子の失で感徳軍行軍司馬に、子の少府少監有終も衡州団練副使に降格された。徳驤は慚愧のあまり病を得て、二年後に卒す。年七十五。当時三司塩鉄副使であった有終が旧官の追復を願い出て許された。
  • 徳驤は文才に乏しく剛直を自任し、性格は偏狭で急躁、多くの人と衝突し士大夫に受け入れられなかった。
  • 有鄰は開宝中に進士に及第できず、父が霊武に流されたのは宰相趙普の排斥のためと疑っていた。当時堂後吏の胡贊・李可度が長く銓選を掌り、請託を受け賄賂を取っているとの評判があった。秘書丞王洞は徳驤と同年及第で、有鄰は頻繁に訪れ、王洞は家事を彼に委ねていた。ある日王洞が白銀半錠を有鄰に買わせ「これは息子に事の要を教え、胡将軍(贊を指す)に渡すためだ」と言った。
  • 当時、三度代理任官し材料が揃った者は自ら投牒すれば召試登用される制度があった。有鄰は前上蔡主簿劉偉と交流があり、偉が三度代理しながら一度の解由(証明書)を欠くことを知っていた。偉は偽印を作り、兄で前進士の劉侁に書写させて銓選試験を通っていた。有鄰はこれを告発し御史台で審理させ、胡贊の家に出入りして事実の多くを証したため、劉偉は棄市、王洞らも杖責のうえ除名、胡贊・李可度は家産を没収された。有鄰は功により秘書省正字を授かり、公服・靴笏・銀鞍勒馬・絹百疋を賜った。
  • 以後、有鄰は屡々人の陰事を密告する上疏を続けた。やがて病を得て、白昼に劉偉が室内に入り杖で背を打つ幻を見て号呼、数日後に死んだ。徳驤には葬儀のため銭十万が賜られた。

雷有終(道成)

  • 字は道成、幼くして聡明であった。蔭により漢州司戸参軍に補される。銓選を主宰する侯陟は剛強で人を犯すことなく、選人が庭に並んでも誰も声を上げなかったが、有終だけは声を上げ大郡の治獄掾を志願した。陟は「三十にも満たぬ身でどうしてこの官を任せられよう」と叱ったが、有終は怯まなかった。
  • 萊蕪尉・知監に任じられると、左拾遺劉祺は有終を年少と侮ったが、有終はその奸贓を摘発、劉祺は罪を得て海島に流され、有終が知監事を代行した。従来、三司の吏の登用は資財による昇進が多く横暴な者もいたが、以後の任官者は有終を憚り自制した。
  • 太宗はその名を聞き、内侍伍守忠を派遣して共同で監事を掌らせその治績を視察させたところ、守忠はわずか一月で有終の有能さを奏上、大理寺丞に急遽任じられた。父徳驤の陝西転運使在任中には解州通判に推挙され、徳驤の巡察免除が特に許された。塩池の利害を上奏し賛善大夫に改められ、通判を省いて知軍事を代行した。
  • 太平興国六年、殿中丞・密州知事、淮南転運副使・緋魚、太常博士。父徳驤が両浙転運使であったため境上で父子が対面することもあり、時人はこれを栄とした。
  • 雍熙中、王師北征に際し蔚州飛狐路随軍転運使、塩鉄判官、戸部・度支副使、金紫を賜り昇州知事。淳化初、少府少監・広州知事。二年、妹婿の衛濯が家法の乱れ(孝先の内乱)を訴え、有終も親族連座により衡州団練副使に降格、章服を奪われた。まもなく父の喪に服す。許田に至って召還され、入対して銭八十万を賜り、都官員外郎、度支・塩鉄副使を経て金紫を回復。
  • 江南・嶺外の茶塩価格が不統一で密売が横行し重罪に陥る者が多かったため、江・淮・両浙・荊湖・福建・広南路茶塩制置使に任じられ、産地で便宜裁量させた。使を終え工部郎中・大名府知事、一月足らずで少府少監に復し江陵知事に転じた。
  • 李順の乱に際し、王師西征で裴荘と共に峡路随軍転運使・同知兵馬事となり、軍需の調達と作戦に節度を持たせた。行軍中に賊に遭遇し激戦、渇いた兵が兜で雨水を受けて飲みつつ進撃、広安軍に至り江に沿って三面に柵を設けた。夜、賊が奇襲し士卒が恐れる中、有終は落ち着いて髪を梳いており、賊の包囲後に奇兵で背後を突かせ、賊は水中に多数溺死した。右諫議大夫・益州知事となる。
  • 簡州の仏寺に宿営中、賊の来襲を予測し門を固く閉ざし土人を集めて夜警を強化、初更に間道から脱出、賊が寺を破って侵入した時には打柝の者しかいなかった。同招安使を兼ね、賊平定後は許州知事。三年、給事中・并州知事に改められる。
  • 真宗即位で工部侍郎、咸平二年帰任し審刑院知事、戸部使。三年、大名巡幸に先立ち澶州で糧草督納に赴かせた。車駕が徳清軍に至った折、益州の神衛戍卒が正旦に反乱し、兵馬都監符昭寿を殺害して都虞候王均を担ぎ上げ、知州牛冕を追放したとの報が入り、即日有終を瀘州観察使・益州知事兼川陝両路招安捉賊事に任じ、御厨使李恵・洛苑使石普・供備庫副使李守倫を招安巡検使とし歩騎八千を与えて討伐させた。洺州団練使上官正を東川都鈐轄、西作坊使李継昌を峡路都鈐轄、崇儀副使高継勲・王阮を益州駐泊都監、供奉官閤門祗候孫正辞を諸州都巡検使とした。
  • 正月三日、王均は漢州を陥落させ綿州を攻めるも旬日で落とせず剣門に向かった。剣州の李士衡は賊の到来を予見し官府の蓄えを剣門に移し倉庫を焼き逃散兵を招募して数十人を得ていた。賊来襲時、剣門都監裴臻と迎撃、風雪の中で賊は敗糟を食するのみとなり、裴臻は数千級を斬り賊は疲弊して夜逃げ、益州に退いた。李士衡は駆けて奏上し度支員外郎・緋魚を、裴臻は崇儀使・峰州刺史を賜り旧職に留まった。
  • 蜀州の楊懐忠は変を聞くとただちに郷丁を集め十一路巡検兵と合流、蜀民の中で賊に従わぬ者は「清壇」と称して抵抗、その頭目七十余人を巡検に補した。十七日、懐忠は益州に入り城北門から三井橋まで焼いた。王均は剣門にとどまり賊将魯麻胡と江瀆廟前で対陣、終日戦うも懐忠軍は劣勢で退却した(懐忠配下に旧李順党が多く略奪癖があったため敗れた)。
  • 懐忠は嘉・眉七州から兵を集め二月再び益州を攻撃。均が逆党趙延順に邛・蜀を攻めさせると懐忠はこれを迎撃し賊を後退させ、転運使陳緯と共に子城南門から軍資庫に突入。均軍は銀槍繍衣の部隊を子城内に配していたが官軍は通遠門で交戦、暮れに筰橋まで退き背水の陣を敷き、櫧木橋南に砦を築いて邛・蜀路を守った。賊は清水壩・温江・金馬の三道から櫧木砦を攻め江原神祠を焼いて援路を断とうとしたが、懐忠は三方に分兵して五百余級を斬り、皁江に追い落として甲弩を多数鹵獲、益州南十五里の鶏鳴原に布陣して王師を待った。均は成都東門を閉じ自固。
  • 有終らが到着すると石普に綿・漢の都巡検張思鈞と共に漢州を回復させ升僊橋に進出、賊が砦を攻めると有終がこれを撃退した。ある日均が城を開いて偽って逃げる様子を見せ、有終・上官正・石普が兵を率いて城内に入ったところ官軍が財を略奪して統制を欠き、賊が関を閉じ伏兵を置いて路口に寝台を並べたため官軍は脱出できず多く殺され、有終らは城壁を伝って落ち、李恵は戦死、漢州に退いた。
  • 益州の民は四方に逃げ惑い、賊党に追殺され、あるいは囚えられ支解され一族殺害の見せしめとされた。士民や僧道の若く壮健な者は兵に強要され、手背に刺青、剃髪、黥面のうえ軍装を与えて旧賊党と混編させた。有終は榜を掲げて招降し、来降者の衣袖に印をつけて釈放、日に数百人に及んだ。
  • 三月、弥牟砦を攻めて千余級を斬るも賊に阻まれ、四月には賊が升僊橋方面から東側に合流して来攻、有終は迎撃し大破、千余人を殺し繖蓋・金槍を奪い、均は単騎で城に逃げ帰った。有終は子の奉礼郎孝若に急報させ、帝は孝若に賊敗北の経緯を問い「均は鼠賊に過ぎぬ、城に籠っても遠からず擒にできよう」と笑って左右に語った。孝若は武芸修練を望み出て供奉官に補された。
  • 刑部員外郎馬亮を転運使、国子博士張志言を副とし、供備庫副使張晌を綿漢都巡検使とした。楊懐忠は合水尾・浣花などに分砦し機石竹籬を設けて防備。賊は升僊橋敗北後、橋を壊し門を塞いだが、官軍は清遠江まで進み橋を架けて渡った。有終と石普は城北門西に屯し、壕に沿って土山を築き旧草場の材料で梯衝洞車を造り、石普が専らこれを主導、高継勲・張晌・孫正辞が城東、上官正・李継昌・王阮が城西、楊懐忠・馬貴が城南を攻めた。賊将趙延順は凶党を尽く駆り立てて防戦したが流矢に当たり死去、部下の丁重万も城門に登ったところを官軍に射殺された。攻城のたびに雨が降り城壁が滑って登れず、官軍・丁夫は洞屋を作って進んだが、賊は地道を掘って奇襲し、濠中で千余人が溺死、軍勢はやや挫けた。暑湿の頃で軍中に疾病が広がり、有終は他州に薬を求めさせた。
  • 同月、洛苑使入内副都知秦翰が両川捉賊招安使となり、有終と共議して城北魚橋にも土山を築いた。八月、城北の羊馬城を陥落させ雁翅敵棚で洞屋を覆いつつ羅城に迫った。九月に城北の洞屋が完成すると賊は対して敵楼を設けたが、有終は兵を遣ってこれを焼き、賊は以後意気消沈し月城を築いて自守した。有終は敢死の士を募り間道から潜入させたが賊の毒矢に当たれば即死したため、士卒に氈をかぶらせ火種を持たせて潜入、望楼・機石を焼き払い、東西南三砦から一斉に鼓噪して攻めさせた。有終と石普は洞屋で進撃、石普が城壁に暗門を穿つと賊が戟を並べて誰も進めなかったが、二人の兵が重賞を条件に志願し戈を突き出して突入、賊の勢いが崩れて城内に攻め入った。
  • 有終は城楼から見下ろすと、賊の残党はなお天長観前に砦を構え文翁坊に密かに礟架を設けていた。高継勲は馬亮に稭秆・油籸の供給を要請、士卒が長戟巨斧に炬火を持って進み全て焼き払い、楊懐忠も天長観前の砦を焼き、大安門まで追撃し再び撃破した。その夜二鼓、均は党二万余人と共に万里橋門から囲みを突いて南に逃げた。有終は伏兵を疑い城内で放火させ、翌朝秦翰と共に門楼に登り、賊の偽官職を受けた牙吏を捕らえ、楼下に薪を積み火を放ち、体格の良い男を選んで指し示させ「某はかつて某の職にあった」と言われれば左右がその都度火中に投じ、朝から夕方まで数百人が焼死した。当時これを冤酷と呼んだ。
  • 均は逃走後、合水尾を経て広都から陵・栄をかすめ富順監へ向かい、通過先で橋を壊し道を塞ぎ倉庫を焼いた。有終は先に楊懐忠に虎翼軍で追撃させ、二日後に石普が全軍で後援した。十月、均は富順に至り、その部将は筏で江を渡り戎・瀘の蛮境へ向かおうとした。朝廷は毎年孟冬朔に富順監に酒肴を用意させ内属の蛮酋を犒っており、その日たまたま均党が到着し飽食した。懐忠の追撃が迫ると聞き均はこれを侮り速やかな降伏を部下に説き、懐忠は部下に荷を負わせて行軍させた。富順まで六十里の楊家市で休息中、賊の後衛が挑戦してきたが、懐忠は騎兵に高地から偵察させ「賊を渡らせては後悔する、石普が来る前に奇兵で捕らえよ」と述べ、江を臨んで布陣し撃破、逃げる残党のうち筏で渡ろうとした者は強弩で射られ多数溺死した。懐忠は旗を掲げ鼙を鳴らして城内に入り、酔った均の部下を尻目に、均は窮して監署で自ら縊死、虎翼軍校魯斌がその首を斬って懐忠に献じ、偽の法物・旌旗・甲馬を鹵獲、党六千余人を捕らえて叛乱は平定された。懐忠が北門から退いた際、到着した石普の軍が均の首を奪い成都に持ち帰り北市で梟首した。
  • 均はもと開封散従直に隷し軍校に補された。当初、神御軍で成都戍守にあたる者は均と董福の二指揮に分かれ、董福は統率が行き届き部下も裕福であったが、均は部下の放縦な飲博を許したため軍装費も不足していた。この年、車駕河朔行幸の際、符昭寿と牛冕が東郊で大閲を行ったが均の部隊は衣服がみすぼらしく、部下は恥辱に憤慨していた。益州知州と鈐轄二署は禁旅を牙隊としており、歳除には牛冕が部士を犒ったが、符昭寿は驕慢横暴、牛冕も政務が緩んでいたため、元旦に一斉蜂起した。昭寿殺害当日、成都の官吏は新年の祝賀中で変を聞いて逃走、牛冕と転運張適は城を縋って脱出、都巡検使劉紹栄だけが刃を冒して奮闘したが衆寡敵せず、叛卒に主がいない中、紹栄を頭に推す動きが出たが、紹栄は弓を持って「我は燕人、故郷を捨てて本朝に帰した身、逆賊に与するはずがない、殺すなら殺せ、朝廷は裏切らぬ」と罵り、誰も手を出せなかった。監軍王沢が均と共に到着し、均に「お前の部下が乱を起こした、自ら招安に行け」と告げた。均が赴くと叛卒はそのまま彼を王に擁立、紹栄は自ら首を吊って死んだ。均は「大蜀」と僣号し「化順」と改元、官職を置き貢挙を設け、張鍇を謀主とした。
  • 張鍇は本名美、太原の旧卒で神衛小校となり、狡猾で戦陣を経験し陰陽術に通じて衆を惑わし、均に乱を勧めた。均自身は臆病で無謀、常々「官軍が来れば自分が先導しよう」と言い、脅迫された事情を弁明しようとしていた。張鍇はこれを聞くと軍中の子弟を選んで寄班に置き均を監視・隔離し、外部との接触を断った。官軍は招降の矢文を城内に射込み均の子弟にも城下で説得させたが、均は一切知らず、届いた書状は張鍇が全て焼き捨てていた。挙兵から敗死まで、均が守ったのはただ一城のみであった。均は当初親軍を「天降虎翼」と名付けたが、最後にはその虎翼軍によって討たれた。
  • 平定後、承受供奉官楊崇勲が急使として捷報を伝え、錦袍・銀帯・器幣を賜った。有終は保信軍節度観察留後に加えられ、秦翰は内園使・恩州刺史、石普は益州団練使、高継勲・王阮は崇儀使、孫正辞は内殿崇班、李継昌は奨州刺史、張晌・楊懐忠は供備庫副使、馬貴は供奉官とされた。この平定の役で懐忠の功が最も大きかったが石普に忌まれ、朝廷がそれを聞きつけ寄班安守忠に戦地を検分させて事実を確かめ、懐忠は改めて崇儀使・恩州刺史に昇進した。
  • 四年、有終は代わって涇原・儀渭・鎮戎路都部署に任じられるが辞退、永興軍府知事、秦州に転じた。景徳初、并代副都部署に転じ黄金四百両を賜り、父の喪に起復。契丹侵入の際、澶淵行幸の帝の詔で有終は土門を経て鎮州に赴き大軍と合流。王超・桑贊が逗留して功を挙げられなかった中、有終だけが赴援して威声大いに振るい、河北の諸城はその声望に頼った。契丹が和議に応じると屯所へ帰り并州判官に任じられ、宣徽北院使・検校太保に召拝。二年七月、急病で卒す。年五十九。侍中を追贈、子の孝若は内殿崇班閤門祗候、孝傑は内殿崇班、孝緒は供奉官、孝恭は侍禁とされ、親族門客のうち八人が任官した。
  • 有終は倜儻自任で小節に拘らず、才幹と度量に優れ沈着果断、強敵を恐れず財を軽んじて施しを好み、藩鎮を歴任するたびに士卒を撫恤し、宴犒の経費が不足すれば私財や榷銭を投じ、家に余財を残さず自身は銅の鞍馬のみを用いた。崇仁里の邸宅は父徳驤が建てたもので、蜀在任中に借りた官庫の数百万銭をこの邸で償おうとしたが優詔で免除され、宣徽使として特に廉鎮の公用銭年二千貫を給された。没した時なお借財が千万にのぼり、官が代わって償った。枢密院の王継英は有終を忌み、蜀での費用を屡々非難したが、真宗は信じず終始庇護した。

雷孝先(子思)

  • 字は子思、有鄰の子。進士に及第し秘書省校書郎試、天長県知事。衛濯の訴え(内乱)により除籍・均州配流。後に宛丘県知事に復帰。李継隆が陳州判官の時にその才を推挙、大理評事に任じられた。契丹侵入時、真宗の大名行幸に際し河北の芻糧輸送で最も早く行在に到着し、太常寺奉礼郎に抜擢された。
  • 王均の益州反乱に際し、叔父有終に従い先鋒として升僊橋で戦い、数百級を斬り均の金槍・黄繖を得て献上、将作監丞に改められた。
  • 李継遷が霊州を陥落させ、軍費調達で関内が大いに乱れると、孝先は商人を募って塞下に穀物を納めさせ茶塩で償う策を進言。召見で意見が採用され陝西に急行し転運使鄭文宝と規画を立て、多く実行された。尚書屯田員外郎に累進、三司拘収司の設置を建議し天下の財利出入を検査させた。
  • 興元府知事に任じられるも保任の失実で華州通判に降格、鄆州知事に転じた。宰相寇準の推挙で内園使・貝州知事となる。慈州の民張熙載が黄河都総管を詐称し沿河州郡の芻糧を集め貝州に至った際、孝先はその奸を見破り捕縛。この功を誇張しようと司理参軍紀瑛を逼って熙載に契丹の間諜(景州刺史兼侍中司空大霊宮使)を自称させ京師に護送させたが、枢密院が孝先の教唆を突き止め、澤州都監に左遷、利・虢三州を歴任、環慶路兵馬鈐轄・邠州知事、昭州刺史・益州鈐轄、左蔵庫使、西上閤門使・涇原路鈐轄兼渭州知事、邠州知事に復帰、耀州に転じ、領軍衛大将軍・昭州刺史として西京に分司、卒した。子は簡夫。

雷簡夫(太簡)

  • 字は太簡、隠居して仕えなかった。康定中、枢密使杜衍の推挙で召見され、秘書省校書郎簽書秦州観察判官公事に任じられた。免職後は長安に居し、処士として身を起こした自負から常官への調任を望まず、多く諸方から求められ招聘された。
  • 三白渠が長く荒廃していたため京兆府が渠の修治を簡夫に任せた。従来の修治は六県の民を四十日役し材木数百万を用いても水量不足であったが、簡夫は三十日、材木は旧来の三分の一で水を十分に得た。坊州知事、簡州に転じ、張方平の推挙で雅州知事。辰州の蛮酋彭士羲が入寇し三司副使李参・侍御史朱処約が鎮撫できなかった際、簡夫が赴いて諸将を督励し明渓上下二砦を築いて要害を占め、旧省地石馬崖五百余里を拓き、士羲は内附した。三司塩鉄判官に抜擢、病により虢・同二州知事、尚書職方員外郎に累進して卒す。子の爵臣は郊社斎郎を授かった。
  • 隠士であった頃は牛に乗り鉄冠を被り自ら「山長」と号し、関中で口舌をもって公卿を説いていたが、出仕後は次第に驕り高ぶり、供の装束もかつての質素さを忘れたため、郷里の人々は「牛と鉄冠は今どこにあるのか」と揶揄した。

王超

  • 趙州の人。弱冠で身長七尺余。太宗が京尹の時に麾下に招かれ、即位後は御龍直に属した。淳化二年、河西軍節度使・殿前都虞候に累進。真宗即位で翊戴の功により検校太傅・天平軍節度を加えられた。
  • 咸平二年秋、東郊で禁兵二十万を大閲、超は五方旗を執って進退を指揮し帝から直々に褒賞を受けた。大名行幸に従い都虞候張進と共に先鋒となる。都大点検傅潜が逗撓の罪を得ると、超は侍衛馬歩軍都虞候・鎮州行営都部署となり鎮・定・高陽関三路を帥した。契丹侵入時に遂城西で交戦し二万を俘馘、裨王・騎将十五人を斬り、手詔で褒美された。
  • 李継遷が清遠軍を陥落させると西面行営の師で防御、永興軍に転じる。宰相の推挙で定州路行営を帥し、王継忠を副とした。鎮・定・高陽関三路都部署に加えられ、密使を通じて御弓矢を賜り便宜行事を許され、開府儀同三司・検校太尉が加えられた。
  • 咸平六年、遼軍が大挙侵入。超は鎮州の桑贊、高陽関の周瑩を召集したが、周瑩は詔旨がないとして応じなかった。遼軍が望都を包囲すると超・贊が援軍として赴き県南六里に布陣、王継忠は陣の東側にいたが、契丹軍が背後に回り糧道を断って人馬が困窮、継忠は自ら前線に馳せて交戦したが、超・贊はそのまま撤退し継忠は孤軍のまま陥没した。帝は劉承珪・李允則を派遣して敗退の様子を調べさせ、鎮州副部署李福・拱聖軍都指揮使王昇が戦うべき時に先に退いたことを報告させ、李福は籍を削られ封州に流され、王昇は杖罪のうえ瓊州に配された。
  • 景徳初、帝が親しく澶淵を巡幸した際、超を行在に召したが超はまた師期を遅らせ、契丹は深く侵入した。折しも南北が和議に達したため罪は軽減され、超は三路帥の職を罷めて崇信軍節度使に、以後河陽知事、建雄に移鎮、青州知事を経て卒す。侍中を追贈、さらに尚書令を追贈、魯国公を追封、諡は武康。
  • 超は将としては部下への指示・恩恵に長けたが、休暇で外出した際に軍校が出迎えを怠ると高瓊が鞭で罰しようとしたのを「公の行いでない時に罪を加えるべきでない」と止め、その寛容さを称された。ただし軍略には乏しく戦闘には拙かった。子に徳用がいる。

王徳用(元輔)

  • 字は元輔。父超が懐州防禦使であった頃、衙内都指揮使に補された。至道二年、五路に分かれて李継遷を討った際、超は綏・夏方面に六万の兵を率い、徳用は十七歳で先鋒となり鉄門関で戦い十三級を斬り家畜数万を鹵獲した。烏白池に進軍した際、他将は道に迷い到着せず敵の鋭気が盛んで超が進軍をためらう中、徳用は追撃を進言し精兵五千を得て三日間転戦、敵勢を後退させた。
  • 徳用は「帰還する軍は険しい地で必ず乱れる」として夏州から五十里の地点で退路を断ち「隊列を乱す者は斬る」と命じ、軍は粛然となった。超もこれに従い馬を落ち着かせて進んだ。李継遷の軍が背後から窺ったが、隊伍の厳整さに恐れて近づけず、超は徳用の背を撫でて「王氏に良き子が現れた」と称えた。
  • 内殿崇班に累進、御前忠佐として馬軍都軍頭となり、邢・洺・磁・相の巡検に出た。盗賊張洪覇が州境に集結し官吏が捕らえられずにいたところ、徳用は氈車に勇士を潜ませ婦人に扮して邯鄲を通過、来襲した賊を勇士が突出してことごとく捕らえた。陝西東路の盗賊捕縛の任に就くと、賊は「張洪覇を捕らえた者だ」と恐れて相次いで逃げ去った。
  • 環慶路指揮使となるが上奏が帝の意に逆らい鄆州馬歩軍都指揮使に降格、内殿直都虞候・殿前左班都虞候・柳州刺史を経て捧日左廂都指揮使・英州団練使に遷る。天聖初、博州団練使として広信軍知事となり、久しく荒廃した城壁を禁軍を率いて増築、褒詔を受けた。冀州に転じ、龍神衛捧日天武四廂都指揮使・康州防禦使・侍衛親軍歩軍馬軍都虞候を歴任。
  • 召還されて并代州馬歩軍副都総管、殿前都虞候・歩軍副指揮使、桂州・福州観察使を歴任。章献太后臨朝の時、内降による軍吏の補任要求に「補吏は軍政のこと、太后と論ずべきでない」と拒み、太后が固執しても最後まで従わず取りやめさせた。太后崩御後、有司が衛士の武装待機(坐甲)を求めたが「旧例にない」と応じなかった。仁宗が太后の閤中で徳用のこの上奏を見出し驚嘆、大用に値すると検校太保・簽書枢密院事を拝させた。徳用は「自分は武人に過ぎず陛下の威光の下で罪を待つのみで十分、学もなく大事に当たる器ではない」と辞退したが、帝が使者を遣わし急ぎ入院させ、副使となった。
  • のちに奉国軍節度観察留後・同知院事、知院、安徳軍を経て検校太尉・定国軍節度使・宣徽南院事を加えられた。趙元昊反乱の際に自ら出征を願い出たが許されなかった。
  • 徳用は容貌が雄毅で色黒だが首から下は色白く、人々に異とされた。ある者が徳用の相貌が太祖に似ていると言い、御史中丞孔道輔もこれに続けて徳用が士心を得ているため久しく機密を掌るべきでないと進言、武寧軍節度使・徐州大都督府長史に罷免された。府州で馬を購入したとの訴えがあり調べると実際は商人からの購入と判明したが、それでも訴えは止まず右千牛衛上将軍・隨州知事に降格、州には特に判官が置かれ家人は皆恐れたが、徳用は平時と変わらぬ様子で、ただ賓客に会わなくなっただけであった。
  • 曹州に転じた際、「孔中丞があなたを陥れ、今その孔中丞が死んだ」と言われても、徳用は「中丞は言官であり自分を害する者ではない、朝廷が忠臣を失ったのは惜しいことだ」と答えた。保静軍節度観察留後として再起用され青州知事、澶州に転じる。陝西での戦が長引き功なく、契丹の劉六符が関南の地の返還を求め兵で圧迫した際、徳用は帝に涙して「以前罪を得たのに陛下は誅せず赦された、今こそ命を賭すべき」と述べ、帝は「河北はまさに警戒すべき時、卿の鎮撫を頼む」と慰め手詔を賜り保静軍節度使に任じた。その年は豊作となり、劉六符が徳用に拝礼して「これはあなたの仁政の賜物です」と述べた。
  • 真定府・定州路都総管に転じ、帰朝奏事の後、宣徽南院使として成徳軍判官に任じられるが赴任前に定州路都総管に転じ、日々士卒を訓練した。久しくして士卒は精強となった。契丹の間諜が偵察に来た際、捕殺を求める声に対し「放してやれ、実情を伝えれば戦わずして敵を服させられる」と述べ、翌日大閲兵を行い、鼓声一つで士卒が踊躍し進退坐作を終日行うも一人も殺さず、糒糧を用意し鼓声・旗幟の指示に従うよう命じた。間諜が帰って契丹に「漢軍は大挙して侵入するだろう」と報告し、契丹は再び和議を求めた。
  • 陳州に転じ、河南への転任は実現せず入朝して朝請を奉じ、相州判官に出て同中書門下平章事を拝し、澶州判官、鄭州に転じ祁国公に封じられ、会霊観使に復した。徳用は元来弓術に優れ老いても衰えず、瑞聖園での射に「自分は老いて弓矢に堪えない」と辞退したが帝が再三勧めたため、二矢を持って射ずにいると帝が必中を促し、弓を収めて謝した後一発で命中、再発でも命中し、帝は「徳用が中てようと思えば中るのだ、誰が老衰したと言えようか」と笑い、襲衣・金帯を賜り検校太師を加えた。
  • 再び鄭州判官、澶州に転じ集慶軍節度使に改められ冀国公に封じられた。皇祐三年、致仕を願い出て太子太師として引退したが、大朝会では中書門下の班に列した。徳用は将家に生まれ軍中の実情に通じ、恩情をもって部下を撫し多くの支持を得た。辺境に臨むことは多かったが自ら矢石を冒して戦を督することはなく、それでも名声は四夷に及び、市井の婦女子までもが「黒王相公」と呼んだ。
  • 帝が辺事を尋ねた際、徳用は「咸平・景徳の頃、諸将に陣図を賜ったため皆それに固執して緩急に互いを救えず度々敗れた、今後は陣図で拘束せず将に臨機応変・独自の奇策を許すべきだ」と述べ、帝も同意した。致仕後も乾元節の朝賀で列班した際、契丹使が通訳に「黒王相公がまた復帰したのか」と語り、帝はこれを聞いて河陽三城節度使・同中書門下平章事・鄭州判官に起用した。至和元年、枢密使に任じられ入朝拝命。翌年富弼が宰相となった際、契丹使耶律防が来朝し、徳用と玉津園で射を競い「天子は公を枢密に、富公を宰相にされた、将相ともに人を得ましたな」と語り、帝はこれを聞き弓一張・矢五十を賜った。
  • 後に魯国公に封じられ、六、七度辞任を願い出て忠武軍節度使・景霊宮使、さらに同羣牧制置使とされ、五日に一度の入朝が許され子孫一人の付き添いが認められた。卒す。年七十九。太尉・中書令を追贈、諡は武恭、家に黄金を加賜された。
  • 徳用の子の中で咸融が最も鍾愛され、晩年は放縦にさせたため多く不法があったが、後に改心し左蔵庫使・眉州防禦使にまで至った。

史論

  • 論じて言う。馬全義・雷徳驤は太祖・太宗に知遇を得、王超もまた真宗擁立に功を立て、いずれも本来なら大いに顕栄すべきであったが、その功業は堇堇(わずか)たるもので人に抜きん出るほどではなかった。しかしそれぞれの子孫は国のために功勲を立てた。将家に生まれながら読書を好み、朝廷で剛正をもって知られた王知節はその家の司直(正しき官)と言えよう。進士から身を起こし才幹と兵略に明るく蜀の巨賊を平定して声威を隣国に振るった雷有終は、まさに戎事に敏なる者であった。そして精神をもって遠く敵を制し名声を四夷に轟かせた矯矯たる虎臣といえば、それは王徳用その人であろう。