宋史卷二百七十七 列傳三十六 張鑑・姚坦・索湘・宋太初・盧之翰・鄭文寳・王子輿・劉綜・卞袞・許驤・裴莊・牛冕・欒崇吉・袁逢吉・韓國華・何蒙・慎知禮

張鑑

  • 字は徳明。瀛州団練使張藏英の孫。父の裔は蔭により供奉官に補す。鑑はもと将家に生まれたが若くして学を好み衞州霖落山に入り学業を修めること10余年。太平興国3年(978年)、進士に擢第し大理評事に釈褐、泰州紫墟榷務を監す。昇朝して太子右賛善大夫となり知婺州、就いて著作郎に遷る。還って監察御史を拝し詔を奉じ江左で獄を決し冤滞を多く雪いだ。殿中侍御史を歴任。
  • 折しも曹彬らの幽州進討が命じられ群臣に方略を問うた際、鑑は上疏して不可を極言したが、論者は鑑が燕人であるため議を沮んだのは忠でないと言った。太宗は不問に付した。趙延進と共に左蔵を掌ったが延進は恩を恃んで規を踰えたため鑑が廷奏し、詔で延進が罷められた。鑑は三司度支の憑由催欠司を判す。当時三部それぞれに憑由催欠が置かれていたが、鑑はこれを1つに合わせることを請い従われた。
  • 王明・李惟清がその能を薦め江南転運使に用いられた。本部の大姓で民の患いとなる者があった際、鑑はその名を上聞し太宗は魁首とその妻子をすべて部送して闕下に赴かせ、三班職名で羈縻するよう命じ、江左は震粛した。また瑞州清江・吉州新淦・袁州新喩の三県を割いて臨江軍を置くことを建議、当時これを便とし召還されて特に慰奨された。梓州の符昭愿が驕僣で不法であったため、鑑を代えてこれに当てた。刑部員外郎に遷り大理寺を判す。屯田郎中に遷り三司都催欠司を判し都勾院に改まる。
  • 枢密直学士に抜擢し通進銀台封駁司を知り、また三班を掌る。供奉官以下が考校殿最されず沮勧がないことを恐れると上言し、詔で鑑に磨勘職を兼ねさせた。三司を左右計に改め天下を10道に分けた際、鑑はその不便を奏し、まもなく果たして旧に復した。
  • 淳化中、盗が西蜀に起こり王継恩がこれを討ち平らげたが、御軍に政がなくその下は功を恃んで暴横した。益州の張詠が密奏し近臣を分屯させることを請うたため、鑑を西京作坊使馮守規と偕に遣わし、召対して後苑門で方略を面授した。鑑は「益部は新たに復し軍旅が和していない、もし使命が急に至ったと聞けば戎伍を変えさせることになり、猜懼から不測の変が生じかねない、臣に安撫の名を仮していただきたい」と述べ、太宗はこれを善とした。
  • 鑑が蜀に至ると継恩はなお偃蹇として朝廷がその縦肆を聞くことを意に介さなかった。鑑は行くにあたり空名の宣頭と廷臣数人を付されており、鑑は詠と共にただちに部下の戍卒を境外に出させ、継恩麾下の使臣も多く東に還らせ、継恩らを督して分路で残寇を討捕させ、鑑らは反側する者を招輯した。事が平定して朝に帰る途中、着かないうちに左諫議大夫・戸部使を拝す。折しも五路進兵で西夏を討伐した際、鑑に伝を乗って環州に赴かせ李継隆と芻糧を霊州に護送する議をさせた。
  • 還って上疏し「関輔の民は数年来併せて科役を負い、畜産は蕩尽し室廬は空虚になっています。加えて浦洛の行で剽劫に遭い、原州の役でまた遷延しました。これは命に従わないのではなく、実に力が及ばないためです。況や先に糧草を棄てたことで、今なお各所で本戸の税租を追科し、互いに他州へ送納させれば往復千里で費耗は10倍、愁苦怨嗟が道に満ちています。春から冬まで少しの休息もなく、糧食は尽き力用は窮まっています。この疲弊した民を顧みればとりわけ憐れむべきです。今もし再び差率があれば流亡を招くばかり、たとえ駆り立てても撓潰を恐れます。願わくは陛下、特に詔旨を垂れ重ねて労させることのないようにし、初春には東作(春の耕作)に努めさせてください。況や霊州は僻遠の絶塞にあり、西陲の旧地とはいえ実は中夏の蠹区、物力を竭してこれを供給し兵を疲弊させて援送しても、空虚な塁がむなしく外虞を増すだけです、これを李継遷に賜って恩を懐かせ、籍を奉じさせて飛輓の役を息ませる方が良いでしょう。事はまさに深く慮り理は予防を要します、もし川が決壊してから防ぎ火が熾んになってから消そうとすれば、焚溺の患いは深刻です、たとえ救おうとしても得られましょうか」と述べた。
  • まもなく詔で鑑に専ら軍糧を督させ軍興法に従って事を処理させたところ、饋運はよく集まった。真宗即位後、給事中に遷り使は旧のまま。咸平初、工部侍郎に改まり知広州として出る。2年経つと民がその政績を述べ上表して刻石を請うた。咸平3年(1000年)、知朗州に移る。渓洞の群蛮がしばしば侵掠した際、鑑は酋豪を召して威信を諭すと皆俯伏して命に従った。
  • 当初、鑑が南海にいた頃、李夷庚が通判、謝徳権が巡検であったが共に鑑と不協で、二人は鑑が資産を海賈に付し往来貿市したため小郡に徙されたのだと密言した。これに対し鑑は自ら親故により瓊州に謫され毎回俸米を商舶に付して寄贈援助したこと、また夷庚・徳権が憸人で貪凶であることを陳べたところ、上意はやや解けた。召還され病により知相州に徙る。監牧の室に芝草が生えたことがあり、鑑はこの祥異を河朔が兵を弭め款附する兆しとして表したところ、優詔で答えられた。景徳初、没した、享年58。子の士廉は殿中丞、士宗は太子洗馬、士程は屯田員外郎となった。

姚坦

  • 字は明白。曹州済陰の人。開宝中、尚書により擢第し将陵尉に調補、隰州推官・将作監丞・知潯州を歴任。太平興国3年(978年)、召還され著作佐郎となり唐州を通判。太平興国8年(983年)、諸王が出閤する際、詔で給諫以上の朝班の中から50歳以上で経に通じ文行のある者を選び宮僚に備えさせることとし、戸部員外郎王適・監察御史趙斉を衞王府諮議、左賛善大夫戴元を本府翊善、水部員外郎趙令図を広平郡王府諮議、国子博士閻象を本府翊善とし、さらに起居舎人楊可法・国子博士楊幼英・左賛善大夫杜新および坦を皇子翊善、国子博士邢昺を諸王府侍講とした。坦にはなお緋魚が賜られた。
  • 太宗は王適らを召して「諸子は深宮に生育し世務を知らない、必ず良士の輔導によって日々忠孝の道を聞かせるべきだ、汝らはみな朕が慎んで選んだ者だ、それぞれ勉めよ」と述べた。坦は殿中丞・倉部員外郎を歴任し金紫を賜り、本曹郎中に遷り考功に転じ、なお益王府翊善を務めた。
  • 坦は性質木強で固執が強かった。益王がかつて邸中に仮山(人工の築山)を作り数百万を費やし、完成すると賓僚を召して酒宴を開き共にこれを観せた際、坦だけが俯いて見ようとしなかった。王が強いて見せようとすると「ただ血山が見えるばかりで、どこに仮山がありましょうか」と言い、王は驚いて理由を問うた。坦は「田舎にいた時、州県が徴税のために父子兄弟を捕えて縣に送り鞭で打って血を流させ体を被らせているのを見た、この仮山はみな民の租税から作られたもの、血山でなくて何であろうか」と答えた。当時、太宗もまた仮山を作っており、これを聞いて壊させた。
  • 王が少し放蕩な折には坦はすぐに醜くこれを詆り、王はその人となりを鄙しんだ。以後坦は毎回その事を暴揚したので、上はかつて坦に「元傑は書を知り学を好み賢王たるに足る、少し規に中らずとも婉しい言葉で規諷すべきだ、況や大故もないのに詆訐することがどうして輔導の道と言えるか」と戒めた。しばらくして左右が王に詐って病と称し朝しないよう教えた。太宗は日々使者を遣わし病状を視させたが、月を越えても癒えないため大いに憂え王の乳母を召して問うと、乳母は「王はもともと病がなく、ただ姚坦の検束により平素に自便できないため王が楽しまず、そのため病になったふりをしています」と答えた。
  • 上は怒って「私は端士を選び王を輔けて善をなさせようとしたのに、王はその諫を用いず詐病までして朕に正人を去らせ自便を図ろうとしている、どうしてこれを許せようか。まして王は年少、必ずこれは左右の者らの謀であろう」と述べ、彼らを後苑に捽らせて杖数十を加えさせた。坦を召して慰諭し「そなたは王宮にあって正を以て小輩に疾まれること甚だ易くない、そなたはただそのままにせよ、讒間を憂うるな、朕は必ず聞かない」と述べた。王が薨じると衞尉少卿に改まり吏部南曹を判す。後日、事に因って上に対面した際、上は坦を旧人としてこれを召して殿に登らせ語り合ったが、坦は故府の事に触れると諸王を貶し自分の敢言を誇るような言い方をした。坦が退くと上は侍臣に「坦は宮邸にあって正理を以て教誨できなかった、事に微失があればすぐこれを言い立てる、これは直言を売って名を取るに過ぎない」と述べた。
  • 景徳初、郡への補任を求め知鄧州となる。転運使がその治状を表し詔で嘉奨された。大中祥符初、再び知光州となる。大中祥符2年(1009年)没、享年75。

索湘

  • 字は巨川。滄州塩山の人。開宝6年(973年)進士、鄆州司理参軍に釈褐。斉州で大獄が起こり連逮者1500人に及んだが有司は決することができず、湘が詔を受けて推鞫し事は速やかに解明された。太平興国4年(979年)、転運使和峴がその能を薦め太僕寺丞に遷り度支巡官を充て太子右賛善大夫に改まり殿中丞に転じ推官を充て、監察御史を拝す。
  • 太平興国9年、河が決壊し民田を壊した際、戸部推官元玘と共に按行を命じられる。折しも詔で東封が下り劉蟠と共に泰山路転運事を知り、また河北転運副使となる。湘は供餽を経度し能幹をもって聞こえ、事集して屯田員外郎を加える。翌年、契丹が侵入し王師が君子館で衄し、敵兵は勝ちに乗じて中渡橋に拠り土門を塞ぎ鎮州に趨こうとした際、諸将の計議はまだ定まらなかったが、湘は田重進のために謀を画し大陣を東行させ高陽関の兵と会すると声言させた。敵はこれを真と信じ衆を擁して平虜城で我らを邀撃しようとしたが、夜二鼓に兵を率いて南に向かい直ちに鎮陽に入り唐河に拠って敵の無備に乗じて砦柵を破り、敵兵が気づいた時にはことごとく遁走していた。
  • 雍熙中、召されて塩鉄判官となり駕部員外郎に改まる。端拱2年(989年)、河北で方田を治めることになり、樊知古を副して招置営田使を命じられたが、折しも議が罷められ再び河北転運使となる。虞部郎中に転じ将作少監に選ばれるが、まもなく庫縑を擅に易えて自用したと訴えられ、連座して膳部員外郎に降され知相州となる。
  • 当時、群盗が西山下に集結し澶州の河橋を断って磁・相二州に入って攻めようと謀り、旗を援げ鼓を伐って白昼に鄰郡を抄劫し、兵千人を発しても捕逐する者は近づけなかった。湘は州軍から精鋭300人を選び、賊がその境に入るのを偵知するとただちに掩撃してこれをすべて擒えた。転運使王嗣宗がその状を上奏、詔で旧官に復し河東転運使を命じられた。湘は忻州推官石宗道・憲州録事胡則を幹職として自ら随行させ、赴任地の州郡でその簿領を勾検させた。二人は後にみな清要の官を歴任した。
  • 翌年、王超らが烏白池に趨き無定河に至ると水源が涸絶し軍士が渇乏したが、当時湘はすでに大鍬千枝を輦していて井を鑿らせ、衆はこれによって救われた。真宗即位後、右諫議大夫として入り再び河北転運使を充てる。属郡の民に「幹醸(酒造)」という職があり歳ごとの輸課がごく僅かなのに不逞な輩がこれを利用して姦盗をなしていたため、湘は奏してこれを廃止した。徳州は旧来、民の馬を賦して駅に給し、また民を歩逓に役していたが、湘は官馬に代え兵卒を用いさせたため人々はみなこれを便とした。
  • 折しも内殿崇班閻自新が静戎・威虜両軍に場を置いて茶を鬻ぎその利を軍用に資すよう建議した際、湘はこれを非便として止めさせた。また言事者が榷場で商旅が茶薬等の物を北界と交易することを許し、北界の商人が雄・覇州で市易することを許して物資の融通を盛んにし辺患を息ませることを請うた際、詔で湘に詳議させたところ、湘は「北辺は榷場の設置以来、商旅が輻湊しその制置は深くその宜を得ています。今もし相互の販易を許せば、沿辺の商人が深く戎界に入り込み、これは不便です。また北界の商人が雄・覇に至れば姦偽が混じるかもしれず、判別が困難です。況や辺民は動きやすく安んじがたく蕃戎の情は覊制すべきです、望むらくはなお旧に従うのが便でしょう」と上言した。
  • 折しも詔で定州新楽・蒲陰の両県の修復規度が命じられた際、湘はその地が迫窄で屯兵の場所ではないとして罷めることを奏した。湘は文に乏しかったが吏事に長じ、辺郡を歴任するたびに必ず広く儲蓄を備え予めの計を出入軍旅の間に著した。以前、辺州には榷場が置かれ蕃夷と互市していたが、京から物貨を輦してこれに充てており、その中で茶茗が最も煩擾で、道が遠く多く損敗した。湘は建議し商賈が江に沿って茶を載せ辺郡に至り入中することを許すよう請い、道の耗を免れさせるとともに征筭の益をも得させた。また威虜・静戎軍が毎年縁辺の草地を焼いて南牧に備えていたところ、言事者はまた北砦の山麓に銀冶を興置することを請うたが、湘は寇を招く恐れがあるとしてこれも奏して罷めた。
  • 咸平2年(999年)、戸部使として入り詔を受け三司編勅を詳定した際、王扶と互いに請託し板籍を擅易したことに連座し将作少監に責め降される。咸平3年(1000年)、知許州として出て荊南に徙り、再び右諫議大夫・知広州となる。咸平4年(1001年)没。詔でその子希顔を遣わし喪を護らせ伝を乗せ郷里に帰葬させた。

宋太初

  • 字は永初。沢州晋城の人。太平興国3年(978年)、進士に挙げられ大理評事に解褐、通判戎州。善政により聞こえ詔で褒美され将作監丞・賛善大夫に遷り通判晋州、太常丞に転ず。雍熙3年(986年)、通判成都府、緋魚を賜う。折しも直言を求める詔があり「守成箴」を著して献じた。淳化初、監察御史に遷る。当時北面で用兵中、雄州通判に選ばれ入って度支勾院を判す。
  • 淳化2年(991年)、京西転運副使となり、まもなく河東に移る。淳化4年(993年)、正使に遷り殿中御史に改まる。至道初、兵部員外郎に遷り塩鉄副使を充て金紫を賜う。当時陳恕が使であったが、太初は規画があるたびに必ず恕に諮り自らを功とすることがなかったため、恕は太初に大いに徳を感じた。折しも西鄙に警報があり転饋が艱急となり刑部郎中に改まり陝西転運使を充てる。
  • 至道2年(996年)、白守栄・馬紹忠に命じ芻糧を護って3番に分けて霊州に至らせた際、転運副使盧之翰が旨に違って併せて往かせたため戎人に剽掠された。上は怒って太初と副使秘書丞竇玭を捕らえ獄に繋ぎ、太初は懐州団練副使に責められ、之翰・玭はことごとく除名され、之翰は許州司馬、玭は商州司戸掾に貶された。翌年、太初は起用され祠部郎中・知梓州となり、まもなく旧秩に復す。
  • 真宗即位後、召還され復た陝西の饋運事を経度する命を受ける。咸平初、右諫議大夫を拝し知江陵府となる。蛮寇が擾動した際、太初は便宜をもって制遏し詔でこれを奨した。咸平3年(1000年)、再び知梓州。翌年、益州の雷有終が母老を理由に還ることを求め、詔で太初にこれに代わらせた。当時、川陜を4路に分け各に転運使を置いていたが、上は事に緩急があり均済しがたいとして太初を4路都転運使とし要切の務を彼らと共に規画させた。
  • 太初は鈐轄楊懐忠と折り合いが悪く、当時蜀土が安定し始めた頃で上は事に臨んで矛盾することを慮り急ぎ太初を召還した。折しも御史中丞趙昌言らが事に連座し弾劾された際、権御史中丞を命じられた。以前、按劾に罪ある者は必ず予め朝旨を請う定めであったが、太初はこれが風憲の体を失うとして獄が成ってから聞かせるようにした。上は当時これを是とした。まもなく知杭州として出るが、太初は宿疾があり浙右の卑湿を不便として近地を求め廬州を得た。病が久しく多く昏忘となり大郡を治められず、汝・光二州を連ねて徙る。景徳4年(1007年)没、享年62。弟の継譲を試校書郎に録した。
  • 太初は性質周慎で赴任地では幹職の誉れがあった。かつて「簡譚」38篇を著し自序に略して「私は生まれつき文史・老釈の学を纂め、常々『礼記』の中庸、伯陽(老子)の自然、釈氏の無為はその帰するところが一つであると考えていた。古の聖道が当世の事に契合することを好んだが、まだ博からないことを患いとしていた。ふと外物が耳目に触れ内機が性情に発するたびに、筆を執ってこれを簡(記す)し、闕忘に備えたのみである」と述べた。子の伝慶は後に太子中舎となった。

盧之翰

  • 字は維周。祁州の人。曽祖の元暉は鴻臚卿、祖の知誨は天雄軍掌書記、父は蔡州防禦判官。之翰は若くして篤学であったが家は貧しく、単州防禦使劉乙の門下に客游し館せられた。乙が銭塘に徙ると之翰もその郡に随って寓した。太平興国4年(979年)、進士に挙げられたが解を得られず、登聞に詣り自陳し詔で京兆府の解試への附属を聴された。翌年登第し大理評事に解褐、知臨安県。3遷して殿中丞・通判洛州。
  • 折しも契丹が侵入した際、之翰は城中の丁壮を募り漳・御両河を決して城壁を固め、虜はこれを攻めることができなかった。吏民は闕に詣で留任を求めた。召還され太常博士に遷り河東転運副使となり、京西転運副使に徙り工部員外郎に改まる。潩河を導いて淮に合し許州に達させ漕運を便利にすることを建議、この労により戸部員外郎を加える。また陝西転運使に改まり吏部員外郎に遷る。
  • 至道初、李順が蜀に乱を起こした際、西川安撫転運使を兼ねる命を受け、賊平定後も任に還る。之翰はかつて李憲を大理丞に薦めたが、憲が贓罪に連座し死罪に処された際、之翰は3任削られるべきとされた。当時副使の鄭文宝が清遠軍の築城を議し、また蕃商の鹽貨を禁じたが、之翰は内心これを不便と知りながら、文宝が事を専任していたためその議に異を唱えなかった。文宝が罪を得た際、之翰も前愆と併せて国子博士に左授され使は旧のまま。まもなく旧職に復す。
  • 折しも芻糧を調発して霊州に輸すことになり、詔で3道に分けて護送させ洛苑使白守栄・馬紹忠にその事を領させたが、之翰は旨に違い擅に1つに併せてしまい、李継遷に浦洛河で邀撃され輜重を大いに失った。詔で国子博士王用和が伝を乗って逮捕し獄に繋ぎ鞫問、之翰は除名に連座し許州司馬に貶された。
  • 翌年、起用され工部員外郎として同勾当陝西転運使となる。真宗即位後、吏部員外郎に復し転運使を充て、久次により召され礼部郎中を拝し金紫を賜り再び任に遣わされる。咸平元年(998年)、病により国子博士張志言に代わらせ還されたが、まもなく再び京西転運使として出る。以前、朝廷は故原州の築城を議し張を守備させようとしたが、之翰はこれを沮止した。その後西鄙が寧んじなかったため修葺して鎮戎軍とすることになったが、之翰は横議して不便と論じたことに連座し知帰州に黜けられ、便道で赴任し5日以内に発つよう限られた。
  • 咸平3年(1000年)、広南西路転運使を授かる。折しも広州の索湘が没し、就いて太常少卿に改まり知州事を兼ねた。之翰は廉潔とは称されず、また転運使凌策と不協で密かにその事を発告した。咸平5年(1002年)、知永州に徙るが行かないうちに没した、享年57。

鄭文寳

  • 字は仲賢。右千牛衞大将軍鄭彦華の子。彦華は初め李煜に事えた。文宝は蔭により奉礼郎を授かり煜の子清源公仲寓の書籍を掌り校書郎に遷る。宋に入ると煜は環衞のまま朝請に奉じたが、文宝は一度会いたいと思うも衞者に難ずることを慮り、蓑を被り笠を荷って漁夫に身をやつして見え、聖主の寛宥の意を陳べ「謹んで節を奉じ他の心配をしないように」と告げると、煜はこれを忠実な言葉とした。後に広文館生に補し李昉に深く知られた。太平興国8年(983年)登進士第、修武主簿に除せられ大理評事に遷り知梓州録事参軍事となる。州将がこれを表薦し光禄寺丞に転じる。1年留任してから代わって帰り、著した文を献じ翰林に召試され著作佐郎に改まり通判潁州。父の喪に遭うが起用され州事を知る。
  • 召されて殿中丞を拝し川陜への均税使となり、渝州・涪州に次いだ折、夔州で広武卒が乱を謀ろうとしていると聞くと、舸に乗って江を泛べ一夜で数百里を移動し計をもってこれを平定した。陝西転運副使を授かり便宜従事を許される。折しも歳歉で豪民に粟3万斛を出させ饑民8万6千口を救った。まもなく李順が西蜀で乱を起こすと、秦隴の賊趙包が徒党数千を集め剣閣に趨いてこれに附こうとした。文宝は蜀郡に書を移して兵を分け討襲させ、その渠魁を獲て残党を殲滅した。
  • 文宝は前後、環慶から糧を部して旱海を越え霊武に入ること12回、蕃情に暁達しその語に習熟し、部落を経由するたびに酋長の帳中に宿し、その人は文宝を「父」と呼ぶ者もあった。太常博士に遷る。内侍方保吉が陝右に使者として出て恣横であり、また文宝が陳堯叟と交遊してその弟堯佐を薦めたと言った際、駅で召して弁対させられたが、文宝は途中で上書して自ら明らかにし、太宗はその事を察して保吉の罪に問い、文宝には厚く賜って遣わした。まもなくまた召されて闕下に至り、文宝の奏対は捷弁で、上は深く眷遇し工部員外郎を加えた。
  • 折しも龍猛卒が環慶を戍ること7年、代われず帰郷を思って乱を謀った際、文宝は詔を矯め庫金で将士に給し、自ら劾して代償を請うと、詔でその費を蠲免した。以前、諸羌部落は樹芸が甚だ少なく、ただ池塩を辺民との交易に用いていたが、折しも饋輓が霊州に趨く途中で継遷に鈔略された。文宝は「銀夏の北千里は不毛の地、ただ青白鹽の販売のみを生業としています、これを禁じ、商人に陝西の安邑・解県の両池鹽の販売を許して民食を済い、官がその利を得て戎はますます困窮すれば、継遷は戦わずして屈するでしょう」と建議、詔で陝以西で私に市する者はみな死罪に処し告発者を募りその罪を差定することとした。
  • しかしこれを行うこと数月で犯す者はますます増え、戎人は食に乏しく相率いて辺を寇し、小康堡を屠り内属した1万余帳もまた叛いた。商人は両池鹽の販売の利が少ないと見ると他の径から唐鄧襄汝の間に出て良い値を求めたが、吏はこれを禁じることができず、関隴の民は食する鹽がなく境上は騒擾した。上はこの事を知り知制誥銭若水を馳せ遣わして視させ、その禁をことごとく除いて諸族を召して撫諭させたところようやく落ち着いた。
  • 朝廷が古威州の築城を議し内侍馮従順を遣わして文宝に諮ったところ、文宝は「威州は清遠軍の西北80里・楽山の西にあり、唐大中の頃、霊武の朱叔明が長楽州を収め邠寧の張君緒が六関を収めた、まさにその地です。旧塁は未だ崩れず水は甘く土は肥え良木薪秸の利があり、葫盧・臨洮の二河に臨み明沙・蕭関の両戍を圧え、東は五原を控え北は峡口を固め、西涼の咽喉・霊武の要地たる十分な地です。しかし環州から伯魚まで、伯魚から青岡まで、青岡から清遠までいずれも両舎(60里)あり、清遠は群山の口に当たり塞門の要を扼していますが、芻車・野宿で行旅は途絶しています。威州は城の東隅の堅石が盤互して池を浚うことができず、城中には旧来井脈がなく、飛烏泉まで城から千余歩もあります。ひとたび縁辺で警急があれば、賊は平夏の勝兵3千を引いて清遠の要衝に拠り高きに乗じ険を守るでしょう、数百人が環州甜水谷・独家原に守り、伝箭で野狸十族を脇従させれば、山中の熟戸党項も従わざるを得ないでしょう。また千騎を分けて磧北・清遠軍の口を守らせれば、環から霊まで7百里の地はもはや国家の有ではありません、どうして威州でこれを防げましょうか。まず伯魚・青岡・清遠の三城を建て、師を屯める帰趨の地とすべきです」と述べた。
  • さらに「古人は『金城湯池も粟がなければ守れない』と言います、2年の間に秦民が肩を息ませるのを待って、臣は営田を建て粟を積み実辺の策とし、五原の故城を修めて三池鹽の利を専らにし、金帛で党項の酋豪の子弟を誘って朝廷のために用いれば、朔方を安んじるだけでなく竪子を制するに至るでしょう、安西を経営し河湟を綏復するにもこれが漸となります」と述べた。詔でその議に従った。
  • 文宝は賀蘭山下に至り唐室の営田の旧制を見て興復を建議し、粳稲万余斛を得て歳運の費を減らすことができた。清遠は積石嶺に拠り旱海の中にあり霊環からいずれも3、4百里で素より水泉がなかった。文宝は民を発して水を数百里外から負わせ数千人を留屯させ、また民を募って楡槐雑樹や猫狗鴉烏を集めさせ至った者に厚くその代価を給したが、地は塩分を含み樹はみな立ち枯れ、西の民はこの役に大いに苦しんだが、城は守り切れずついに山水に壊された。また寧慶州に水磑を作らせたがこれもまた山水に漂われた。
  • 継遷の酋長で嵬囉・嵬悉俄という者がいた。文宝は金帛でこれを誘い、手書で約束し長子を人質に留めさせ密かに継遷を図るよう命じ、これを遣わす際「事成れば朝廷はそなたを刺史に授ける」と告げた。文宝はまた漆木で函を予め作らせ継遷の首を馳せ献じる備えとし、また民に古碑石を曳かせて清遠軍に持ち込み紀功を図ろうとしていたが、嵬囉らはこの事をことごとく継遷に告げ、継遷は表を上げて罪を請うた。上は怒ったが文宝をなお含容した。
  • その後、文宝はまた鹽の禁止を請い、辺民で法を冒して罪に問われる者が甚だ多くなった。太常博士席羲叟が陝西で獄を決する際、これを廉知して中丞李昌齡に語り、昌齡がこれを上聞した。文宝はまた解州の鹽価を減らすことを奏したが未だ1年に満たぬうちに課を20万貫欠損し、また三司に摘発された。詔で鹽鉄副使宋太初を都転運使とし文宝に代えさせ、還らせて御史台に下し鞫問すると具伏し、詔で切責され藍山令に貶され、まもなく枝江令に移された。
  • 真宗即位後、京山に徙る。咸平中、召還され殿中丞を授かり京南の榷貨を掌る。折しも慶州が兵を発して芻糧を護り霊州に向かわせた際、文宝は素より山川の険易を知り必ず継遷に敗られると上言し、まもなく果たしてその奏の通りとなり転運使陳緯は賊に没した。継遷が清遠軍を進んで陥した頃、文宝は母の喪に服していたがまだ服を終えぬうちに相府に召され策略を問われた。文宝は河西隴右図を献じその地利の本末を叙し、また霊州は棄てるべきだと述べた。当時まさに大将王超を遣わして霊武を拔かせようとしていたが、文宝を工部員外郎に復し随軍転運使とした。環州に至った際、ある人が霊州はすでに陥ちたと言ったため、文宝は服を変えて単騎を引いて大雪を冒し間道で清遠故城に抵り真相をすべて把握し、班師を奏した。就いて本路転運使に除される。
  • 上疏して再び清遠軍を修葺することを請うたが、都部署王漢忠がこれは事を生じさせるのを好むためだと言い、河東転運使に徙された。かつて「管内の広鋭兵1万余は資糧を得がたい、近南諸州に徙し置くことを請う」と上言し、また強壮戸に馬を市わせて征役に備えることを言おうとしたが、宰相李沆らは「広鋭は州兵でみな本州守城のために営が置かれている、必ず安土重遷を慮るべきで、徙せば紛擾を招くだろう。また強壮は郷落に散在し拘轄する所がなく、その馬を市うことを強制するのも不便ではないか」と述べた。上はまた文宝に条対させたが、文宝は前議に固執し、土人が久留すればあるいは事を生じるかもしれないと述べた。上は「以前、軍伍を団併し営壁を改置したのは互いに本貫を移させるためであり、これを行ってすでに久しいのに、文宝は確かにその利を陳べる」と述べ、銭若水に詳しく度らせて聞かせたところ、若水の答えは沆らと同じであったため、この議はついに罷められた。
  • 以前、麟府は重兵を屯めみな河東からの輸饋によっていたが、地理は甚だ近いのに河津の阻みがあり、土人は河東の民を利用しているためあまり至らず、芻粟の価は上がった。上はかつて辺に使いした者に河の広さを問い、わずか数十歩と分かると詔で文宝に府州・定羌軍に浮橋を経度させ、人々はこれを便とした。折しも継遷が麟州を囲んだ際、伝を乗って昼夜赴かせ囲みは解けた。刑部員外郎に遷り金紫を賜う。
  • しばらくして寇準がその西事に熟達し駆策に備えられると薦め、これにより再び陝西転運使に任じられた。かつて手劄を出して密かに戒め、辺事は僚属と計議し須索を過度にして下を重ねて煩わせることのないようにさせた。後にその張皇(大げさに騒ぐこと)を言う者があり、詔で京西に徙し朱台符が代わった。景徳元年(1004年)冬、契丹が辺を犯すと再び河東に徙る。文宝は所部を安輯し郷兵を募って辺備を張り、また蕃漢兵を領して河北に赴き手詔で褒諭された。まもなく再び京西に蒞す。契丹が和を請うと文宝は経久の策を陳べ上はこれを嘉した。
  • 景徳3年(1006年)、召還されるが着かないうちに病を得て藩郡の散秩を求める表を上げた。詔でこれを許し籍を除かず続けて奉養させた。病により子の鄆州推官於陵を大理寺丞・知襄城県として養を便ならしめた。大中祥符初、兵部員外郎に改まる。車駕が汾陰を祠って還った際、文宝は鄭州に至って見えることを請い、上はその久しい病により忠武軍行軍司馬を授けたが、文宝は就任せず前官のまま襄城の別墅に帰った。大中祥符6年(1013年)没、享年61。
  • 文宝は方略を談ずることを好み功名を自らの任とし、久しく西辺にあって兵計に参与したが、心には余りあっても識が不足し、また細行を護らなかった。薦挙した属吏は多かったが選ぶことがなかった。晩年病廃し、従子(甥)が邑を治める際に県政を撓すことが多かった。詩を能くし篆書を善くし鼓琴に工み、文集20巻、また「談苑」20巻・「江表志」3巻を撰した。

王子輿

  • 字は希孟。密州莒の人。曽祖の甲は義勇により郷人に推され、唐末、淄青・徐兗はみな南は呉人に給し梁を拒んでいたが、梁が三鎮を得ると呉人の北侵はますます急になり、沂・密は特にその害を被った。州民は8砦に集まって寇を扞ぎ、甲を8砦都指揮使に署した。祖の徽は父の職を襲い、後晋末、(闕)帥趙重進が高密を掠めた際、徽は戦没した。父の璉はまたその事を嗣ぎ、後周世宗の淮陽平定後、初めて兵を去って農に就き自ら厚く封殖した。子輿は若い頃文辞を業とし、太平興国8年(983年)、進士に挙げられ北海主簿に解褐、大理評事・知臨海県を歴任、光禄寺丞に改まり西蜀で獄を決する使者となる。還って知興国軍。
  • 淳化中、雷有終が江浙荊湖茶塩制置使となり子輿を判官に奏す。太子中允に転じ著作郎に改まり江淮両浙制置茶塩、就いて太常博士に転ず。真宗即位後、殿中侍御史に遷る。三司に入って利害を論列した際、子輿の議が最も優れているとされ度支員外郎に転じた。子輿は毎事、上計司に移報するのが稽滞していたため職を兼省することを求め、鹽鉄判官に命じられ制置を領させ歳課を50余万貫増した。咸平3年(1000年)、就いて淮南転運使を兼ねる命を受ける。
  • 子輿は吏事に精通し久しく茶塩漕運を掌り利害を熟知し、経制を裁量して公私ともに便とした。赴任地の郡県で公事を申請する文牒が頃刻の間に紛委しても、子輿はみな即座に決遣し滞ることがなかった。翌年、代わることを求める表を上げ詔でその推薦を許すと、子輿は卞袞・劉師道の名を上聞し、即座に袞と師道を転運使に命じ、子輿を召して右諫議大夫・戸部使を拝させた。咸平5年(1002年)2月、便殿で奏事の折、突然病を発して地に倒れ、中使に命じて掖して出させたが邸に至って没した。子の道宗は当時まだ幼く、三司判官朱台符にその家を検校させた。子輿には子が1人、女が3人でみな幼かった。道宗もまもなく没し家は楚州に寓した。子輿の妻劉氏は父母の家に帰り、子輿の柩は京師にあった。景徳中、官が船を借りて柩を移し郷里に帰葬させ、京師の居第を売り銭を楚州の官庫に寄せ3人の娘の資送に備えた、これは従弟の請いによるものであった。

劉綜

  • 字は居正。河中虞郷の人。若くして外兄の通遠軍使董遵誨に依った。遵誨がかつて貢馬を遣わした際、太祖はその敏辯を嘉して三班の職を授けようとしたが、綜は自ら詞業を習っており科挙に応じたいと述べた。還る際、上は解真珠盤龍衣を遵誨に賜ろうとしたが、綜は「遵誨は臣にすぎない、どうしてこの賜を受けられましょうか」と辞退したところ、上は「私は遵誨に方面を委ねている、これを疑ってのことではない」と述べた。雍熙2年(985年)、進士に挙げられ卭州軍事推官に解謁、就いて永康軍判官に改まり大理評事に遷り通判眉州、太僕寺丞に転ず。
  • 代わって帰り便殿で対した際、蜀地は富庶で長らく安寧を保っているが益州の長吏は慎んでその人を選ぶべきと述べ、上はこれを嘉して太子中允に改める。まもなく李順が果たして乱を起こすと、再び召見され緋魚を賜った。まもなく三門発運司水陸転運使となり通判大名府、連ねて父母の喪に遭うが起用され知建安軍。以前、天長軍と揚州六合県の民が輸賦において不便であったため、綜は天長軍を県に降し揚州に隷させ、六合県を建安軍に隷させることを奏請、以後民力は均済された。
  • 当時、淮南転運使王嗣宗が発運使を兼ねていたが規画に迂滞が多く、綜はこれにより都大発運司を再置し職を専らにすることを請うた。至道2年(996年)、太常丞に遷る。職事の修挙で薦める者が多かった。咸平初、王欽若に代わり三司都理欠憑由司を判すことを命じられ、河北転運副使として出る。「州県幕職官が昏耄により放罷される者の中には実は廉謹の士で、幼弱の負担が寄る辺なく、あるいは居所が定まらず、ひとえに禄廩に頼って朝夕を凌いでいる者がいる。ひとたび停罷されれば飢寒に依るところがない、これは和気を傷つけるものだ、望むらくは今後は皆致仕官を除く扱いとしていただきたい」と上言し、また「法官が獄を断ずるにあたり皆律令の文を引いて軽重の罪を定め、その奏御に及ぶと『中を得ていないことを慮り別に進止を取る』と言うのは、一成不変の道理でなく、また聖断を煩わすのは道理に合わない、今後は詔旨を降して約束し、再びこのようなことのないようにしていただきたい」と述べた。
  • 当時、河北は兵寇の後で民戸は凋弊し、吏部が銓する幕職州県官はみな四方の人で風俗に不慣れで懐土の思いがあり、これにより政事は因循として挙がらなかった。綜は今後すべて河朔の人を充てることを建議し、安居して職事に勤めさせることを冀った。夏人が西辺を擾すと環慶に大兵が屯された際、詔で綜を陝西転運副使に徙し太常博士に転じる。当時、梁鼎が解鹽の官による専売を議していたため綜は杜承睿と共に青白鹽の事を制置することを命じられたが、綜は利害を条上し不便を力言し、ついにこの事は罷められた。
  • 当時霊州は孤立し危うく、献言する者の中には棄てることを請う者もいた。綜は「国家の財力は雄富、士卒は精鋭でありながら凶孽を剪除できないのは、実に賞罰が行われず任じる者がその材でないためである。今もし軽々しく群議に従い霊州を棄てようとすれば、これは賊の姦計に中るものである。且つ霊州は民が淳で土が肥え西陲の巨屏である、固守すべきであり扞蔽とし、その後、浦洛河に遠軍城を屯兵させ糧を積んでこれに応援を為させれば、これは暫時の労で永久の逸を得る形勢である。況や鎮戎軍は霊州と相接する、今もしこれを棄てれば原・渭等州はますます設備を要する、その労費を較べれば10倍にもなろう、利害の理は明白に検証できる」と上言した。
  • まもなく転運使を充てる。咸平4年(1001年)、また鎮戎軍に屯田務を置くことを建議し、唐の安国鎮制置城壕・鎮戎の古記石本を録して献じ、詔でその請いに従った。まもなく詣闕し奏事が帝意に叶い金紫・緡銭50万を賜り再び職に遣わされる。またかつて「天下州郡の長吏・審官はみな資例に拠って授けられ得人と言えない、今後、西川・荊湖・江浙・福建・広南の知州は地が津要にあるか戸口が繁庶な地であれば親しくこれを選任していただきたい、その執政の旧臣や給舎以上に知州とすべき場所もまた官を選び通判させるべきだ」と上言、また「京朝官で遠官を任じるべき者は父母が未葬であることを理由にして規免を求めることが多い、今後は父母が未葬の者は告を請うて営辦させ、審官に投状する際に父母がすでに葬られたことを明言してから例に依って考課することを許し、違反者は共にその官を罷めていただきたい」と述べ、これに従われた。
  • 咸平5年(1002年)、工部員外郎兼侍御史知雑事を拝す。咸平6年(1003年)、起居舎人に遷り再び河北転運使となる。当時両河で用兵中で辺事が煩急、転漕の任は特に頼りにされたが、綜はこれを継領し詳練と称された。この頃、眷矚は甚だ厚く警急の際にはその奏で処決に資され、契丹が和を請うと近臣を遣わして抜擢の意を諭させた。景徳3年(1006年)、召されて戸部員外郎・枢密直学士を拝し三班院を勾当する。綜は「御史の員数は極めて少なく、毎回朝請にあたり制獄を劾するのに多く他官がこれを承っている、これは甚だ彜制を紊すもの、望むらくは両制以上の官に才が御史に堪える者をそれぞれ推薦させ三院にあわせて10員を置いていただきたい、もし使いに出て按獄する際に経由する州郡の官吏の能否・生民の利病・刑獄の枉濫をことごとく察挙できるように」と述べた。
  • 咸平7年(1004年)、西幸の道が河陽の境を出た際、当時節度使王顕が病を得て京に還ったため綜が権知孟州事となった。まもなく召還され再び知并州として出て、政績により州民が留任を乞い優詔で嘉奨された。朝に帰り審官院を知り吏礼二部郎中に改まり職を兼ね通進銀台封駁司を知る。大中祥符4年(1011年)、契丹使の館伴として大雪歌を作って献じ、即座に同知貢挙を命じられ李宗諤に代わり館伴使とした。まもなく権知開封府。綜は貴要と結ぶ富民のために請求してやったり、あるいは親属に託して試秩を奏授させたりし、これにより謁見の官司が公政を紊すことが多かった。これに対して抑止を加えることを建議した。また文武官で遠任に居て家属が京師に寓している場合、その子孫弟姪の無頼な者に厳しく約束を加え、その交游の輩を併せて劾罪することを望み、これに従われた。
  • 大中祥符7年(1014年)、老疾を理由に河中を典めることを求めた。真宗は太寧宮廟の長吏が祠を奉じ、綜が拝起に難があり恭事を克くできないことを慮り知廬州を命じた。翌年、学士を罷め右諫議大夫を授かる。大中祥符8年(1015年)没、享年61。綜は強敏で吏材があり、赴任地では豪右を抑挫し文法を振挙し当時幹治と称された。しかし気を尚び勝ちを好み物論には許されなかった。子の建中・正中はいずれも賛善大夫、弟の綽は淳化3年(992年)の進士で刑部郎中に至った。

卞袞

  • 字は垂象。益州成都の人。父の震は詩を工み蜀の進士に挙げ渝州刺史南光海の判官に辟された。蜀平定後も旧職のまま、折しも賊杜承褒が衆を率いて城を囲んだ際、援兵が至らず震は自ら士卒を率いて戦い且つ拒んだが流矢に当たり創甚だしく軍に臨めなくなった。州兵は重傷を負い甲を巻いて夜遁げ、刺史陳文襲はこれを遏められず賊はついに入って郡城に拠った。賊は偽官・厚賄で震を誘ったが震はことごとくその使者を斬った。賊に東章という者があった、もと本州の兵校であったが、人を遣わし朝廷の威徳を述べ禍福を諭させると章は懼れかつ信じ、伏兵で承褒の党類を攻撃した。承褒の衆は素より備えがなかったため即座に大潰し、震と文襲は残卒を分けて夾撃しついに賊衆を平らげた。文襲は州城陥失に連座し籍を削られ民とされたが、震は前功により贖を得て虢州録事参軍として没した。
  • 太平興国8年(983年)、袞は進士登第。累遷して大理評事・知将楽県となり光禄寺丞に改まり通判泗州、著作佐郎に遷り広南転運司承受公事となり、まもなく宣州を通判。淳化中、上は諸官僚の中で廉幹な者を採り御書印紙を給して考課を書かせ実奉を賜って旌異することを命じ、袞もこれに預かった。太常丞に改まる。咸平初、監察御史に遷り淮南転運副使となり荊湖発運使を同じくし幹職により聞こえ就いて殿中侍御史を加える。三司開拆司を判し再び淮南転運使兼発運使となる。
  • 咸平6年(1003年)、三司使の職を分け副貳を置くことになり、袞は刑部員外郎・鹽鉄副使とされた。景徳初、背に疽が発して没した、享年45。弟の扆を臨頴主簿に、子の咸を将作監主簿に録した。袞は明敏で吏幹があり長らく財賦を掌り清心で局を治め称職と評されたが、性質が惨毒で掊克(過酷な取り立て)に走り厳峻で専ら捶楚(笞刑)に頼ったため「大蟲(虎)」と呼ばれるほどであった。真宗はかつて近臣に「袞は公忠尽瘁で畏避することがなく人はほとんど及ばない、しかしかつて外任にあって残酷を傷めることが多く、赴任先の州県は些細な過ちも容赦されなかった。おおよそ部下を督察し愆違を糺すには、大故がなければ矜恕すべきである、官吏が自ら威を畏れ恩を懐き二度と過ちを犯さぬようにし、公家の事も達成できてこそ、吏たる道の適中を知る、それが善というものだ」と語った。

許驤

  • 字は允升。世々薊州に家した。祖の信、父の唐は代々財産で辺郡に雄をなした。後唐の末、唐は契丹が辺を騒がそうとしていることを知り父に「今、国政は廃弛しており狄人は必ず隙に乗じて動くだろう、そうなれば朔易の地の民はその災いを被る、すぐに立ち去らねば虜となってしまう」と告げた。信は資産が富殖しているとして他への移転を喜ばなかったため、唐は密かに百金を携えて南へ下った。まもなく晋祖が革命し果たして燕薊を契丹に賂したため唐は帰る道を絶たれた。かつて商貲を汴洛の間で擁していた頃、進士が列をなして出るのを見て密かに嘆じ「子を生むならこのようにさせるべきだ」と述べ、以後再び商を行わなかった。
  • 睢陽に居を卜し李氏の娘を娶り驤を生んだ。驤は風骨秀異で唐は「わが志を成した」と言った。郡人の戚同文が経術で徒を集めていたため、唐は驤を連れてこれに詣で「唐は先には父母に別れを言わず死んだことに余恨があった、今、先生を拝すれば私の父になる、また自らを不学と念じ子を教えて宗緒を興したいと思う、この子は幼くとも先生が育て上げてほしい」と述べた。驤は13歳で文を属し詞賦を善くした。唐は字を知らなかったが家産を尽くして驤を当時の秀彦と交わらせた。
  • 驤は太平興国初、貢部に詣り呂蒙正と斉名した。太宗が京兆尹であった頃からこれをよく知っており、廷試に及んで甲科に擢し、将作監丞に解褐し通判益州、銭20万を賜り右賛善大夫に遷る。太平興国5年(980年)、右拾遺・直史館に転じ右補闕に改まる。太平興国6年(981年)、陝府西北路転運副使として出るが、折しも副使が罷められ知鄜州に徙り召還され比部員外郎となり宣・昇二州を歴知する。雍熙2年(985年)、江南転運副使に改まる。
  • 洪吉の上供運船が水損した際、物主・吏がその罪を懼れて故意に舟を覆したため、獄を鞫する者は欺盗と断じ流死にあたる者が数百人に及んだ。驤は馳せ往いて訊問しその情実を得て上聞、多くが軽典を得られ優詔で褒められた。また「劫盗で配流された者が赦に遇い元の郷里に戻ると、告訴・捕吏した者を讎として殺害することが多い、今後はこれを軍に隷させたい」と上言し詔で許された。正使に遷る。端拱初、主客郎中を拝す。まもなく知福州に徙るが、たびたび表して還ることを求め報を待たずに入朝、便殿で召対され長く延問された。兵部郎中に改まり西川転運使を領す。
  • 久しく外任にあることを理由に辞し右諫議大夫に抜擢、就いて知益州を命じられ召還され蜀民が浮窳で動揺しやすいため忠厚な者を選んでこれを撫し予備とすべきと上言した。まもなく李順が叛乱すると、人々はその先見にかなり服した。審官院を知る命を受け御史中丞に遷ったが病のため固辞したが許されず、占謝の日に坐ったまま労問を命じられ良薬を出して賜り「これは朕が服して験のあったものだ」と述べられた。後に驤は久病により職務を振るえなくなり、真宗即位後、兵部侍郎に改まりしばしば小郡での療養を求めた。折しも入朝の際に失儀があり御史に糾弾されたが特に詔で問わず知単州を命じられた。咸平2年(999年)没、享年57。工部尚書を贈られ子の宗寿に出身を賜う。驤は他に才略はなかったが人々は儒厚な長者として称えた。宗寿は後に殿中丞となった。

裴莊

  • 字は端已。閬州閬中の人。曽祖の琛は後唐昭州刺史、祖の遠は河東観察支使、父の全福は鄠県令。莊は蜀にあって明経で登第し、宋に帰して虹県尉・高陵主簿を歴任、本府に召され司理掾を権ねる。転運使雷徳驤は威望を自任し、かつて巡按してその境に至った際、官属はみな迎候に出たが莊だけが本局で事を視た後にゆっくり道を進んで謁見した。徳驤はその節操を称賛し忻州録事参軍を権ねさせた。
  • 以前、并州は軍儲を偫積しその条制は厳格で出納を掌る者は常に10余人いたが、莊が代わってこれを独任した。絳州防禦推官に抜擢され并・嵐二州の緡帛芻糧を提点する。遼州判官に改まり旧局を務め続けた。雍熙3年(986年)、巡辺の将に命じられた折、莊は隨軍糧料を掌り、内客省使楊守一がこれを称薦し大理寺丞を授かる。当時、雲朔の降戸が汝洛に遷された際、莊を遣わしてこれを安輯させた。まもなく忻州通判となるが赴任前に、折しも魏咸信が澶州に出鎮した際、改めて通判を命じられた。1年経たぬうちに咸信がその能を表し太子中允に遷る。
  • 端拱初、潘美が真定に鎮した際、また辟されて通判となった。当時契丹が趙・深の辺を掠め辺将は功がなかったため、莊は上書し後周世宗が樊愛能・何徽の二将を誅したことでついに淮南を取り巴蜀を克したことを引き、陛下が紀律を申明し寇を玩ばせないよう願うと述べた。また縁辺の砦柵の戍兵が少なく戎人が易々と襲取できるとして廃罷して益州兵に充てることをすべて請うた。折しも方田建設が詔されると、莊は再び大役兵師が辺鄙で事を生じることを慮ると上言し、上はこれを善とした。
  • 淳化3年(992年)、召問され辺事に応えたことが帝意に叶い面ずから緋魚を賜り清資官への授与を命じられ、翌日監察御史・荊湖南路転運使を拝したが赴任前に三司塩鉄判官に改まる。上疏して両省官に諫紙を給することを請い、また故事を引いて屠殺禁止の月には重刑を報じないことを求めた。折しも劉式が縁江榷務を廃止することを建議した際、莊はその不便を力言し荊湖北路転運使として出た。淳化5年(994年)、李順が蜀に乱を起こすと雷有終と共に陝路隨軍転運同兵馬事を兼ねる命を受けた。ある人が莊が本蜀人であるためこの任には不適と言ったが、上はますます信頼し便宜の事を許した。事が平定すると殿中侍御史に転じ工部・司封の両員外郎を歴任、特に召されて討賊の方略を問われた。
  • 至道2年(996年)、将を5路に分けて李継遷を討伐した際、莊は密かに師出無功を予測し、継遷に恩を加え、その倔強で拒命するのを待って甲を按じ塞外に留めて捕虜にするのが遅くないと請うた。まもなく諸将は果たして敗績した。まもなく祠部郎中に遷る。真宗即位後、度支に遷り河東転運使を充てる。上章し「慶邠・延州・通遠軍はいずれも辺要にある、武幹の姚内斌・董遵誨のような者を任じるべき」と述べ、また「田紹斌はかつて疑いを受け、韓崇業はもと秦王の婿であり、程徳元は初め晋邸に事えて甚だ親近であったが後に疎遠にされ外遷したため、いずれも怨望を懐いている、戎寄を委ねるべきでない」と述べた。まもなく知蘇州に移る。咸平2年(999年)、江南巡撫使を命じられ、還って池州・興国軍は良吏を得たがその他は称するに足りないと述べ、また「朝廷が任命する知州・通判はおおむね資考によって授けられ、因循偷安で政術がない者でも次いで親民の官を得る一方、公器を蘊んで政績のある者が偶々公坐に連座すると司冗の務に黜けられるなど、真偽が弁別されず僥倖がますます盛んになっている、今後は望むらくは慎んでその人を選び資格で補授することのないよう、政績ある者には恩礼を加えていただきたい」と述べた。
  • この年秋、契丹が塞を犯すと河北転運使を命じられた。当時傅潜が大軍を統べ定州に駐屯していたが、莊はしばしばその無謀を条奏し機会を失うことを慮った。王顕が枢密を掌り顕と潜は共に攀附から起こったため大いにこれを庇い、莊の奏は多く報われなかった。知越州に徙る。まもなく傅潜が罪を得ると、莊は顕・潜がみな不才で辺事を誤ったとして厳誅を行い群議を粛正することを請う上言をした。まもなく知宣州に徙る。折しも百辟に上封し直言を求める詔が出た際、莊は暴征を去ること・煩刑を省くこと・吏職を択ぶこと・稼政を敦くすることの4事を条列して疏を奏し、詔でその宜しく行うべきところを先後開陳させた。莊の答は甚だ具体的で司封郎中に改まる。
  • 景徳初、両浙を安撫し能吏20人・慢官の者5人を奏し多くの升黜が行われた。また潞・邢二州を知る。大中祥符初、東封に伴い鴻臚少卿に改まり入って登聞鼓院を判す。汾陰の祭祀に伴い太僕少卿として北嶽の加号冊礼の副使を務め「北行記」3巻を撰して献じた。大中祥符6年(1013年)、知襄州として出る。翌年、車駕が南京に幸した際、莊は太宗に事えたことのある恩例により大府卿を授かり権判西京留司御史台。天禧2年(1018年)、入って刑部を判すが病により西京留司に分ける。郊祀に伴い光禄卿に改まり上都への帰還を求め医薬を便とした。没した、享年81。孫の慶孫を試将作監主簿に録した。
  • 莊は吏幹があったがあまり清操がなかった。慷慨で敢言を好み太宗はその忠を奨し多く聴納したが、規画を好みながらも学術に乏しかった。かつて広聴院の設置を建議したが西垣の学士でこれを聞いた者は嗤った。晩年、退居して棺櫝を製し自ら随行させ、賓客を接することを喜び終日倦むことがなかった。子の奐は咸平2年(999年)の進士で屯田郎中、稷は左班殿直閤門祗候となった。

牛冕

  • 字は君儀。徐州彭城の人。太平興国3年(978年)進士、将作監丞に解褐、通判郴州、和州に徙り左賛善大夫を加え太常丞に遷る。知徐州として勤政により聞こえ召還され監察御史に転ず。端拱元年(988年)、文章を召試され左正言直史館に遷る。知潤州として出て泉州に徙るが着任前に福建転運使を命じられ左司諫を加える。邵武軍歸化金坑の廃止を建議、土人はこれを便とした。
  • 至道初、召し入れられ秩を進めて兵部員外郎・知潭州となる。郡に至ってわずか数日でまた召され兼侍御史知雑事を拝す。真宗が東宮にあった頃、冕はかつて奉使して生辰の礼幣を賜っており、即位後もなおその名を記憶していた。工部郎中に改まる。永熙陵の復土に伴い折しも中丞が欠員となり儀仗使を命じられた。当時三司はそれぞれ官局を設けていたが多く均済せず、冕は1つに合わせ副貳を分けて設けることを請い、事務が煩わされずに済むようにすることを求め、その後結局冕の議が用いられた。
  • 咸平元年(998年)、知益州に選ばれ右諫議大夫を拝す。両川は李順平定後、民は困苦に苦しみいまだ業に安んじられず、朝廷は矜恤に緩慢であったため、戍卒は符昭寿の虐政に乗じ嘯集して乱を起こした。冕は転運使張適と共に城を委てて漢州に奔り、詔で赴闕させ京兆に至ってその罪を劾し共に籍を削られた。冕は儋州に流され、適は連州参軍となる。冕は赦に遇い欽・英二州に移り、鄂・海二州の別駕・淮南節度副使を歴任。大中祥符初、真宗は宰相に「冕は素より純善であったが黜棄されて久しい、宜しく量って甄叙すべきだ」と語り、就いて知漣水軍として起用され、まもなく再び祠部員外郎となる。没した、享年64。子の昭倹は殿中丞に至った。

張適

  • 太平興国5年(980年)進士。藩郡に任じて治績があり廉敏と称された。水部員外郎となり知鄜州、対面を許され太宗はその詞気の俊邁を喜び緋魚を賜う。まもなく京東転運副使に改まり直集賢院を加え、一日に三度寵渥を被り時人はこれを栄とした。西川転運使に徙るが連座して貶され、後に起用され彰信軍節度副使・知淮陽軍となり没した。

欒崇吉

  • 字は世昌。開封封丘の人。若くして吏部令史となり上書して事を言上、臨淄主簿に調補される。折しも令が贓罪に連座して貶されると崇吉が代わりにこの任に命じられた。また書判優等により舒州団練判官に改まったが赴任せず中書刑房堂後官として留められた。太子右賛善大夫に改まり揚州の榷務を掌るため出るが、まもなく殿中丞に遷り再び堂後官として五房公事を提点。崇吉は文法に明るく習熟し清白で事に勤めた。至道初、度支員外郎・度支副使に抜擢される。
  • 当時、堂後官の著作佐郎楊文質が秘書丞として五房事を提点していたが、上は召見して「そなたが取り立てられたのは欒崇吉に匹敵するか、自ら勉励すべきだ」と語った。崇吉はまもなく祠部郎中を加える。真宗の時、累進して江南転運使に至り代わって帰り刑部を判し鼓司登聞院を兼ねる。後に司農少卿に遷り知洪州となる。有司が歳ごとに民財を歛めて舟を造っていたが、崇吉は至るとこれを罷めるよう奏した。病により濠州に徙り衞尉少卿に遷り将作監として致仕、没した。子は2人、源は虞部員外郎、沂は殿中丞となった。

袁逢吉

  • 字は延之。開封鄢陵の人。曽祖の儀は唐に仕え軍功により黄州刺史に至る。祖の光甫は尉氏令。父の蟾は大理評事。逢吉は4歳にして『爾雅』『孝経』を誦じ、7歳にして『論語』『尚書』にも通じた。後周太祖が召見しその巻を発して試したところ束帛を賜いその精習を賞した。開宝8年(975年)、三伝科で擢第、清江尉に釈褐。知州王明がその能を薦め就いて豊城令に除せられる。翌年、また転運使張去華と共に治状を条上し春秋博士に召される。端拱初、国子博士に遷り度支推官となり、また戸部勾院・度支憑由理欠司を判す。淳化中、戸部判官に改まる。
  • 水部・司門の両員外郎を歴任し西京転運使として出て水部郎中に転ず。宰相呂蒙正はその経術を薦め学官に任じるべきと述べたが、折しも蜀が叛乱し折しもその吏資を借りるため西川転運使を授けられた。至道初、荊湖北路に徙る。当時賊はすでに平定されていたが夔峡はなお集まり官軍の供饋は荊楚から出ており、逢吉は遠路を渉ることを憚り軍前に赴かなかったため計度が糧餉に乏しいことに連座し職を罷め知夔州となった。折しも川陝への採訪使が遣わされ、それに応じ治績のある知州・通判7人を条上した。逢吉自身は朱協・李虚己・薛顔・邵曄・査道・劉検と共にこれに預かり、みな詔を賜って褒諭された。司門・庫部の両郎中を歴任。咸平中、再び京東転運使となり連ねて福・江・陳・襄四州を知る。大中祥符中、西京留司御史台を権ね知汝州に徙り、太祖に事えたことがあるため鴻臚少卿を拝す。大中祥符7年(1014年)没、享年69。
  • 逢吉は性質修謹で時務に練達した。当初、鄆州の牧馬草地が民田数百頃を侵し牒訴が連上し、5回使者を遣わして按視させても解決しなかった際、逢吉が命を受けて赴くと侵した田をことごとく返還させ民はみな徳とした。兄の及甫は京東峡路転運副使から駕部郎中に至る。逢吉の子の成務は比部員外郎・京東転運副使に至り、従子(甥)の楚材は虞部員外郎に至った。

韓國華

  • 字は光弼。相州安陽の人。太平興国2年(977年)、進士に挙げられ大理評事に解褐、通判瀘州、就いて右賛善大夫に遷る。代わって帰り彰徳軍節度判官を除せられ著作佐郎・監察御史に遷る。雍熙中、太常少卿を仮り高麗への使者となる。当時太宗はまさに北征しようとし、高麗が遼境に接し何度もその侵略を受けていたため、詔を齎してこれを諭し西の会戦への出兵を命じさせようとした。国華が至ると、その俗はかなり獷驁で険を恃み遷延して詔をなかなか奉じなかったが、国華は檄を移して朝廷の威徳を諭し、速やかに臣節を守らねば天兵が東下し責めを逃れられなくなると告げた。ここに至って俯伏して命に従い、使が還ると緋魚を賜った。
  • 雍熙3年(986年)、右拾遺直史館に改まり鼓司登聞院を判し、まもなく三司開拆推官を充てる。雍熙4年(987年)、本司を判し左司諫に遷り鹽鐵判官を充てる。淳化2年(991年)、契丹が和を請うたが朝議はその実であることを疑い、国華を河朔に使いさせて察させた。至ってその詐りをことごとく明らかにして聞かせた。毎年の後苑賞花で三館の学士はみな預かれたが、淳化3年(992年)春、国華は潘太初と共に対を機に自ら両省の清官・計司の職を兼ねながら曲宴に侍せないことを述べ、館職を兼ねたいと願うと、即日並んで昭文館に直させる命があり、2日後に苑の宴に陪預した。三司の属官が館を兼ねて直することは国華らから始まった。
  • まもなく刑部員外郎を授かり、三司勾院を判すことを歴任、再び鹽鐵判官となり、また左計判官となり、まもなく三勾を都判し金紫を賜い、兵部員外郎・屯田郎中・京東転運使に改まり陝西路に徙る。旧制では川陝の官俸はみな鉄銭で支給されており資用に乏しいことが多かったが、国華はその数を増すことを奏し都官郎中を加え、入って大理寺を判し職方郎中に改まる。詳定に失中があったため梁灝に代わらせ知河南・潞州転運使とされた。その善く綏輯し供億幹辦であることが言われ詔で奨された。
  • 景徳中、秘書監を仮り契丹への使者となり、また江南巡撫となり入って開封府判官を権ねる。真宗が朝陵する折、魏咸信が曹州から召し入れられ扈従することになった際、国華が権州事を命じられ、まもなく太常少卿に改まり知泉州として出る。大中祥符初、右諫議大夫に遷る。大中祥符4年(1011年)、代わって還る途中、建州に至って伝舎で没した、享年55。子の珫に出身を賜う。国華は儀観が偉く性質は純直で時誉があった。子の琚・璩・琦はいずれも進士及第、琦は英宗・神宗朝の宰相で自伝がある。

何蒙

  • 字は叔昭。洪州の人。若くして春秋左氏伝に精通し、李煜の時に進士に挙げたが及第せず、書を献じて事を言上し録事参軍を署せられた。宋に入り洺州推官を授かる。太平興国5年(980年)、遂寧令に調される。折しも太宗が契丹を親征して還った際、詩を作って献じ、召見され賞歎され右賛善大夫を授かる。3遷して水部員外郎に至り通判廬州。折しも郡中で火災が起こり廨舎・榷務がすべて焼失した際、蒙は民の器を仮り鄰郡から麹米を貸りて酒を造らせたところ、まもなく課は倍増した。戸部使がその状を上奏し詔で緡銭を賚りこれを奨した。
  • 徐々に司門に遷る。巡撫使潘慎修がその材敏を薦め、駅で召されて京に至ると、面対で江淮の茶法を訪ねられ、蒙は利害を条奏したことが帝意に叶い緋魚と銭10万を賜った。2日後に再び対面し、また淮南酒榷の便宜を上奏し特に庫部に改まり銭20万を賜い、淮右に赴きその事を提摠する命を受けた。以後、歳々羨利があった。使いから還ると知温州として赴任前に留められ在京諸司庫務を提挙、外任を求め再び知温州を命じられたが、挙人を不当としたことに連座し官を1つ削られた。
  • 真宗即位後、前資に復す。淮南の鹽禁を開くことを請い上言したが、当時卞袞・楊允恭らはまさに鹽禁を便としてこぞってこれを排抑したため、知梧州として出された。まもなく水部郎中に改まり著した「兵機要類」10巻を上奏。当時審官が漢陽軍知事に擬していたが、引対に及んで知鄂州に改まった。大中祥符初、庫部に転ず。大中祥符4年(1011年)、太府少卿を加える。まもなく知太平州、また知袁州。州民の多くが金を採っていたため、租税に代えることを建議したが、上は「これでは農が業を廃してしまう」と述べ許さなかった。まもなく濠州に徙る。大中祥符6年(1013年)、表を上げ事を謝し光禄少卿を授かり致仕、命が下る前に没した、享年77。

慎知禮

  • 衢州信安の人。父の温其は詞学があり銭俶に仕え元帥府判官で終える。知礼は幼くして学を好み18歳で書を俶に献じ校書郎に署せられ、まもなく掌書記を命じられた。宋初、俶の子惟濟が入覲するのに随行し、帰って営田副使に署せられる。太平興国3年(978年)、俶に従い朝に帰り鴻臚卿を授かり知陳州・興元府を歴任。知礼の母は年80余で宛丘に居り、知礼は帰養を懇求し退いて10年間仕えた。縉紳はその孝を称えた。母が服を終えると納禄の表を請い、至道3年(997年)、工部侍郎として致仕。知礼は幼少より白頭に至るまで、毎年五経を一巡読み終えるまで続けた。書巻を開くたびに必ず衣冠を正し危坐して少しも懈ることがなかったという。咸平初、没した、享年77。子の従吉。

慎從吉

  • 字は慶之。銭俶の婿である。元帥府長史を務め宋に帰し将作少監を歴任。折しも朝士の中で望のある者を選び少列に補する際、太子右庶子に改まる。真宗が儲位(皇太子)に昇るのに伴い衞尉少卿に換わり、真宗即位後、再び右庶子となり詹事に遷る。從吉は朝に帰ってから散秩に居ることほぼ30年、文酒をもって自ら娯しみ士大夫の多くがこれと交遊した。景徳初、上言して事務を領することを求め刑部を判し法律の条を留意し便宜を条上した。天下から奏された成案は多くが糾駁され、本司が積んだ負犯人の告身を取ってこれを鬻ぎ什器を市う費に充てた。
  • 大中祥符初、衞尉卿に改授され在京の刑獄を糾察し右諫議大夫を拝し吏部銓を判す。当初、選人が試判を受ける際、多く地に籍を敷いて座っていたが、從吉は公銭で筦席を市いこれを給した。事に臨んで敏速で公家のことに心を尽くし、赴任地では皦察に務め、多く対を請うて事を陳べたため上はその隠すところがないことを述べた。大中祥符8年(1015年)、給事中に改まり権知開封府。命を受けると召して戒め「京府は浩穰、およそ事は速すぎれば誤り、遅すぎれば滞る、ただ酌中を要するのみだ」と述べた。従吉は嘱託を一切受けなかったが、就任してわずか数月で咸平県民張斌の妻盧氏が甥の質が酒に酔って悖乱な言を吐いたと訴えた事件があった。張は素より豪族で質はもと養子であったが証言は明白であり、質が吏に賄賂を贈った際、従吉の子で大理寺丞の鋭がちょうど石塘河の運搬を督して咸平を往来していたため、県宰に頼んで質の姓を劉に戻す判決を出させ盧と同居させた。
  • その後、質と盧が交互に訴訟を起こし県から府に聞こえた。従吉は戸曹参軍呂楷に県に赴いて推問させたが、盧の従叔(伯叔父)である虢略尉昭一が白金300両を楷に賄い、楷は久しく決しなかった。盧の兄文質もまた銭70万を従吉の長子で大理寺丞の鈞に納め、鈞はその事を従吉に告げながらその受け取ったものは隠した。盧はまた府に詣で訴えを列ねたため、その事は右軍巡院に下された。昭一の兄澄がかつて手書を銭惟演に送り「従吉に言伝えてほしい」と述べたことがあり、事は鈞・鋭に及んだが、彼らはこれを緩めるよう請うた。従吉は疑懼を深め密かに御史台への付託を請い、詔で御史王竒・直史館梁固に鞫させた。獄が成ると従吉は給事中を削られ勒停され、惟演は翰林学士を罷され、楷・鈞は免官されて衡・郢州に配隷、鋭・文質はみな官を1つ削られ、澄・昭一は共に杖刑を決せられ配隷された。
  • また高清という者があった、庫部郎中高士寵の子で景徳中に進士に挙げ、宰相寇準は弟の娘をこれに嫁がせ、寇氏が没すると故相李沆の家もまたこれに嫁がせた。清は歴官して賄で聞こえ姻援を頼んでかなり驕縦であり被服は公侯の家のようであった、これにより小民を欺蠹した。太康県の民が家産を訴えに府に詣でた際、清はその賄を納めたが折しもすでに任を罷められていたためよそに逃げ隠れた。鋭がかつて清から白金70両を貸りていたが、清は多くの賄賂を納めた事が発覚しそうになると助けを求めた。折しも盧氏の獄が鞫される最中、従吉は対を請いその事を発いて自ら解こうとし、清らを逮捕して獄に繋ぎ比部員外郎劉宗吉・御史江仲甫にこれを劾させた。清は法を枉げたことが死罪にあたるとされたが特に杖脊・黥面の刑にとどめ沙門島に配された。鋭はまた衞尉寺丞を削られ、従吉は事を自ら発したことで首露の罪となり贖銅にとどめ諫議大夫を削られた。
  • 天禧3年(1019年)、起用され衞尉卿となる。翌年、登聞鼓院を判すが寇準と親しいことに連座し光祿卿として致仕、まもなく没した、享年70。従吉は詩を好み警語が多く医術にも工んだ。子孫で仕官する者は甚だ多く、進士に及第し朝に昇り朱紱を曵く者数人があった。家は財に富み特に治生(財産管理)に長け、多くの負販の器を作り貸賃し、市で棺櫝を鬻ぐことすらあった。また饌具を善くし権要に分け遺った。晩年、権勢へのすり寄りはますます甚だしくなり、これが破滅に至る原因となり、物論はこれを鄙しんだ。子の鏞は金部・度支員外郎・秘閣校理、楷は太常博士。

史論

  • 論じて言う。八政の首は食貨であり、国家の経費は一日たりとも欠くべからざるものである。しかし生産に道があり用いるに節度がある、それはその人にかかっている。張鑑は西蜀への使命に処制よく事宜を得た、権を行うに堪える者と言えるだろう。王子輿は経制を裁損し、索湘は鬻茶を議して罷め、許驤は謹んで儒行を守り、知礼は篤く経学を信じ、国華は君命を辱めなかった、いずれも称賛に足る者である。太初は自ら性命の奥義に通じたと称したが結局は釈老の帰趨に流れた。文宝は久しく辺郡に任じながらも生事を招いて黜けられることを免れなかった。劉綜は朔易で労を著したが経術に短があった。従吉は公務に勤めながら子への訓えに疎かった、これらはいずれも尽善とは言えない。その他の子らのうち、之翰は潔白の操を虧き、卞袞は仁恕の道に乏しく、冕がその城守を棄てたこと、坦が輔導に疎かったことは、いずれも君子の取らざるところである。