宋史卷二百七十六 列傳第三十五 安忠

安忠

  • 河南洛陽の人。祖の叔千は後晋に仕え累任して方鎮となり太子太師で致仕した。父の延韜は左清道率府率。忠は形質魁岸で書を知らずわずかに姓名を通じるのみであった。太宗の藩邸に事えることほぼ20年。太宗即位後、東頭供奉官を授かり弓箭庫を掌り、内弓箭庫副使・西京作坊使に遷り翰林司内衣庫を掌り医官院を提点し雍州で屯兵を掌る。
  • 折しも曹彬が拒馬河で敗れた際、忠は砦兵を分けて縁辺に布列し游騎に備え、また河を鑿り城壁を葺いた。まもなく威虜軍に徙り、また鎮定路大陣の左に隷し、まもなく擢して東上閤門使とし、大将李継隆・田重進・崔翰と共に契丹兵を祁州の北で追い詔書で奨飭された。端拱元年(988年)、高陽関の屯兵を護ることに移る。契丹が鎮定を侵した際、また崔翰と共にこれを拒み、傅潜が瀛州に陣した折、忠は城の西面を当てられた。
  • 端拱2年(989年)、知寿州に徙る。月を越えて貝州に移る。劇賊12人が久しく民の患いとなっていたが、忠はこれを捕えて悉く獲た。淳化4年(993年)、判左金吾街仗王賓が知揚州として出た際、忠に代わり左龍武軍大将軍とした。忠は泣いて「諸衛将軍は朝外に列し左右に近づけません、旧職への復帰を願います」と請うたが、上は笑って「環列の官は古官である、大将軍は3品、そなたは終に朝廷の表著の位を知らないのだな」と述べつつも、その請いに従った。
  • まもなく東上閤門使に復し淮南諸州兵馬鈐轄を充てる。至道3年(997年)、病により帰還を求め泗州に至って没した、享年64。天禧元年(1017年)、その孫の惟慶を殿直に録した。

史論

  • 論じて言う。太宗は潜邸にあった頃、左右に必ず忠厚で強幹の士を求めた。即位後、旧邸の功を修めるにあたり陳從信・張平・王繼升・尹憲・王賓・安忠の6人はいずれも任使に備わり、みな兵食の重い任を委ねられそれぞれその職を振るった、称賛すべきところがあった。しかし張平は旧怨を修めなかったのは士大夫の度量にほぼ近く、從信が進めた邪佞は術によって上の心を蠱惑した、これもなお近侍の常態を免れなかったと言えよう。