王賓
- 許州許田の人。小心謹愿で、10余歳にして宣祖に左右で事えた。長じて騎射を善くし、太宗が兖海節制を領した折、太祖は府中の右職に署させた。太平興国初、東頭供奉官に補し亳州監軍となる。賓の妻は妬悍で賓は制することができなかった。当時監軍は家族を任所に連れることを許されなかったが、妻がほしいままに亳州に至ったため賓はこれを上に具白した。太宗はその妻を召し衛士に捽らせ杖百を加え、この妻は忠靖卒として一夜のうちに死んだ。
- 賓は儀鸞副使に遷り内酒坊を領する。太原征討に従い、また范陽征討に従い彰信節度劉遇と共に城の東面を攻める。太平興国5年(980年)、車駕北巡にあたり王仁贍を副して大内都部署となる。太平興国7年(982年)、洛苑使に改まる。折しも汴漕が壅滞して軍食が給されない際、詔で別に水陸発運の両司を置き、賓が心計に優れているとして演州刺史を領し儒州刺史許昌裔と共にその事を掌ること4年、儲積は増羨し称職とされた。
- まもなく右神武将軍に改まる。黎陽は舟車が交会する地で禁兵が常に万余屯していたが、度支使張遜の薦めにより賓に黎陽軍を護らせ黄・御両河発運事を兼ねさせた。まもなく本州団練使を領す。賓が黎陽に通利軍を建てることを請い、就いて知軍事を命じられ、賓は公署・郵館・供帳の器を規画し悉く具えた。本軍大将軍を加え歳ごとに別に銭200万を給される。まもなく河北水陸路転運使を兼ねる。貝州の兵屯は壁塁がなく邸肆に分寓していたが、賓は隙地を選んで舎千2百余を築き彼らを置き、優詔で褒美された。召されて右羽林軍大将軍・判左金吾兼六軍諸衛儀仗司事となる。
- 淳化4年(993年)、知揚州として出て淮南発運使を兼ね、通許鎮都監に徙る。至道元年(995年)没、享年73。賻贈が加等された。賓は宣祖・太祖・太宗に事えることほぼ60年、最も勤旧の臣で恩寵は特に厚く、前後の賜賚は数千万に及んだ。ともに釈氏を奉じた。黎陽にあった日、古寺の基を按見しその奉銭でこれを修めた際、地を丈余掘ると石仏数体と、賓の姓名が刻まれた石碣が出た。賓はこの事を不思議に思い聞かせると、詔で寺の名を「淳化」とし新印経1蔵と銭300万を賜って助けとした。