宋史卷二百七十六 列傳第三十五 滕中正

滕中正

  • 字は普光。青州北海の人。曽祖の瑤は高郵令、祖の煦は即墨令、父の保裔は興平令。中正は弱冠で進士に挙げられたが及第せず、後周顕徳中、滑帥向拱が奏じて掌書記に辟した。拱が彭門に鎮を移した折、中正は父の喪に遭ったが復た奪情の表を上げ旧職に留まり朝散大夫を加える。拱が襄陽に鎮すると中正は襄・均・房・復観察判官・留守西路をも兼ね、また河南府判官を奏署され検校戸部員外郎となる。
  • 乾徳5年(967年)、度支員外郎侯陟が中正の材幹を表し、殿中侍御史として入る。両川平定後、知興元府に選ばれ西京留台を判す。まもなく河南府を通判し留守司事を兼ねる。太祖の西洛雩祀に祗事すること勤めて倉部員外郎に転じる。太宗即位後、考功員外郎に遷り四川東路転運使を授かる。
  • 太平興国5年(980年)、召されて膳部郎中兼侍御史知雑事。太平興国6年(981年)、中書舍人鄭珍・戸部郎中雷徳驤と共に京朝官考課を命じられる。中正はかつて監察御史張白を推薦していたが、白は知蔡州で官銭200貫を貸り粟麦を糴って射利したことに連座し棄市に処された。中正は本曹員外郎に降格され旧のまま知雑を続けたが、まもなく再び右諫議大夫を拝し権御史中丞。
  • 雍熙元年(984年)春の大宴で、上は虚しい盞を群臣に示すほど歓んだ。宰相が飲酒過度で儀を失うことを恐れると述べると、上は中正を顧みて「今、君臣が相遇う中で失があっても弾劾するな」と述べた。伶官が盛んに宴会の楽しさを言うと、上は「朕の楽しみは時が平らかで民が安んじることにある」と述べた。この冬の乾明節で群臣が上寿の酒を3行進めたところ、上は中正に「三爵の飲は常礼だが、朕は群臣ともう一巵挙げたい、よいか」と述べ、中正は「陛下の聖恩は厚い、臣は詔を奉じないわけにはいかない」と答え、殿上は皆万歳を唱えた。
  • 雍熙2年(985年)、年老を理由に辞し知河南府として出る。まもなく病を患い分司西京に罷される。淳化初、判留司御史台。子の元錫に権河南司録を命じ孝養させた。淳化2年(991年)没、享年84。中正は性質峻刻で大獄をしばしば鞫し当時の議論は深刻に過ぎるとみなしたが、権中丞の日は綱憲を振起し人々はその職に称うとした。2子はいずれも進士に挙げられ、元錫は刑部郎中に至り、玄晏、後名は世寧、は工部郎中に至った。