宋史卷二百七十六 列傳第三十五 劉保勲

字は修業。河南の人。父の処譲は後晋の枢密使・彰徳軍節度使。若くして騎射を好み、後晋・後漢・後周を経て宋に仕え、吏才を認められて塩麹商税・転運使などを歴任し財政実務に尽力した。雍熙3年(986年)、曹彬の幽州征討に従軍中、拒馬河の敗戦で子の利渉と共に没した(享年62)。性質純謹で吏事に精通し、蓄財を求めなかった清廉な官として知られる。

年表(8件)

劉保勲

  • 字は修業。河南の人。父の処譲は後唐に仕え後晋に入り枢密使を拝し、彰徳軍節度使として出た。保勲は若くして騎射を好み、後唐清泰中、わずか10余歳で潞州左司馬を摂し父に従い彰徳軍衙内都校を署した。父の没後、供奉官に補し刑名の学を習い詩に巧みで、宰相桑維翰に詩を献じてその才を認められ太常丞に抜擢された。後漢を経て秘書丞となる。後周広顕初、法律に詳しいとの推薦で大理正を兼ね、工部員外郎に遷り鄆・宋・楚三州の塩麹商税を掌る。
  • 宋初、戸部を拝すが母の喪に遭い、起復して蘄口の榷茶を掌り、雲安監塩制置使に徙る。歳満ちて羨余百万を出したが、転運使がこれを状聞しようとした際、保勲は「官物を貪って自己の功とすべきか」と言い止めさせた。開宝初、司封員外郎に遷り左蔵庫を監す。開宝6年(973年)、知宋州。太平興国初、祠部郎中に遷り晋州を通判。太平興国2年(977年)、江南西路転運使に選ばれ銭百万を賜う。太平興国3年(978年)、両浙東北路に徙る。
  • 太宗の晋陽征討にあたり戸部郎中に改まり随軍転運使兼勾当北面転運事となり、侯陟と共に軍前諸事を勾当。折しも陝西北路転運使雷徳驤が沁州軍糧の調発を期限に遅らせた際、詔で徳驤を劾し保勲がこれに代わった。太原平定後、知并州を命じられる。1年余り後、召し入れられ大理寺を判じ、知昇州として出る。この冬、召還され三司開拆司を点検、折しも塩鉄使が欠員となり権ねてその事を領させられ、兵部郎中に遷り三司勾院を判す。
  • 太平興国8年(983年)、右諫議大夫を拝しまもなく知開封府。寡婦劉が府に訴え、夫の前妻の子元吉が食に毒を盛り死にかけたと言った。獄が成った際、元吉の妻が登聞鼓を撃って冤罪を訴えたため御史台に下すと、実は劉に姦事があり元吉がこれを知ったため劉が慙悸して病を得たので、これを誣告したものだった。保勲は連座して俸を3月奪われる。まもなく辛仲甫が代わり、まもなく大理寺を判じ直す。雍熙2年(985年)、権御史中丞兼勾当差遣院。この秋、権中丞を罷される。
  • 雍熙3年(986年)春、曹彬らの幽州征討に際し保勲は本官のまま知幽州行府事となり、子の利渉は開封府兵曹として督軍芻粟のため父に随行した。折しも王師が拒馬河で不利となり互いに踏み荒らされ多くが死んだ際、保勲の馬が泥沼に陥り、利渉は後ろからこれを掀き出そうとしたが力及ばず、馬に押し潰されてついに親子共に没した。享年62。上はその後事を恤むよう命じた。
  • 保勲には3子あったが、2子は保勲より先に没し、末子も同時に没したため、孫の巨川を嗣とし秘書正字を授けた。端拱初、特に工部侍郎を追贈。保勲は性質純謹で眠りは浅く物に忤らうことなく、吏事に精通し繁劇を厭わなかった。かつて人に「私は君命を受けて未だ辞避したことがなく、同僚と接して意を失ったことがなく、家にあって蓄財しても千銭に達したことがない」と語り、没後にこれを聞いた人々はみな痛惜した。至道3年(997年)、また次孫の世長を正字に録した。咸平初、保勲の妻が没すると詔で銭10万を賜う。巨川は累進して比部郎中に至った。