宋史卷二百七十五 列傳第三十四 劉謙

博州堂邑の人。父の仁罕は五代末の動乱の中で澶州の浮橋を断って賊を潰した経歴を持つ。若くして侠気に富み、郷里で人を殴殺し京師に亡命して軍に投じた。真宗の東宮時代から仕え、殿前副都指揮使・振武軍節度使にまで昇り大中祥符初の東封に従った。景徳以後は辺城の冬衣支給の時期を早めるよう進言するなど実務に配慮した。享年60。

年表(7件)
  • 至道初真宗の東宮親衞都知に任じられ袍笏・鞾帯・器幣を賜る
  • 真宗即位後洛苑使に抜擢される
  • 咸平初御前忠佐馬歩軍都軍頭に遷り勤州刺史を領す
  • 景徳初侍衞馬軍都虞候を加え潯州防禦使に改領する
  • 大中祥符初東封に従い泰山下の馬歩諸軍を都総する
  • 翌年8月没する、享年60
  • 咸平4年1001年捧日天武四廂都指揮使に遷り権殿前都虞候となる

劉謙

  • 博州堂邑の人。曽祖の直は純厚として郷党に聞こえ、その衣を盗む者があっても問わなかった。州将が廉知し人にわざとその衣を再び盗ませたが直は訴えなかった。かえって前に盗んだ者を詰めるとその衣を返させ、直は「その衣は私が少年に与えたもので盗まれたのではない」と偽って言った。州将は義とし金帛を賜おうとしたが受けず立ち去った。
  • 父の仁罕は輕俠を自任し、五代末、寇盗が満ちる中、仁罕は衆を率いて澶州の浮橋を断って賊を潰し、誘って数十人を獲て芻粟を出して官軍に給し内黄鎮将に補す。かつて事で酒家に至り群盗が急に集まった際、計をもってその首を悉く梟し西京留守向拱に携え届け汜水鎮将に補し、まもなく散都頭となる。宋初、許州龍衞副指揮使に遷る。折しも王師の広南征討に前鋒として従い、還って同州都校に改まり没した。
  • 謙は若い頃から感慨があり小節にこだわらなかった。かつて嶺表に父仁罕を省みに行った際、金帛を持たされ北帰を命じられたが、途中商いをしながら堂邑の旧邸に還り、かつて郷里の悪少に辱められたことに耐えかね毆殺し京師に亡命し、応募して軍に従い衞士に補し、内殿直都知に遷る。至道初、真宗が儲君の位に就いた際宮衞が増補され、太宗は便坐で自ら諸校を選び、謙に西頭供奉官・東宮親衞都知を授け袍笏・鞾帯・器幣を賜った。
  • 真宗即位後、洛苑使に抜擢。謙は行伍から起こったため禁職を楽しまず秩を換えることを求め殿前左班指揮使に改まり諸司使の奉料を給された。咸平初、御前忠佐馬歩軍都軍頭に遷り勤州刺史を領し殿前右班都虞候を加える。上が大名に行幸し北苑に至った折、謙は病を患い帰されようとしたが、謙は懇請して従行し、二子を随侍させ尚医を挟んで従わせ御廚の膳で調養させた。病が癒えると身に着けた鞍勒を毀って中使に贈り、上はこれを聞いて白金200両を賜う。
  • 駕還後、捧日左廂都指揮使に改まり本州団練使を領す。咸平4年(1001年)、捧日天武四廂都指揮使に遷り本州防禦使を領し権殿前都虞候。当時、高翰が天武左廂都校であった折、負債のある卒が人を殺し屍を営中に埋め、数日後に土を掘って発見された。上は翰が検察を怠ったことに怒り便殿に召したが、謙は「翰の職は巡邏と閲教にあり常に営にいるわけではない、本営の事宜は軍頭を責めるべき」と進言し、上は翰の罪を釈した。
  • 景徳初、侍衞馬軍都虞候を加え潯州防禦使に改領、まもなく権歩軍都指揮使、翌年冬、殿前副都指揮使・振武軍節度使を制授された。先に謙は久しく権殿前都虞候にあったが、まもなく曹璨が正授され、謙は少なからず慨嘆したが、この時、璨は馬軍の副に留まり謙が禁衞を領することとなった。江北の屯兵は常に8月に冬衣を給していたが、謙は「辺城は早く寒くなる」と上言し6月に給すよう請いこれを例とした。まもなく足疾により郡を典めることを求めた際、上は召見して敦勉した。
  • 大中祥符初、東封に従い上が泰山に登った際、詔で山下の馬歩諸軍を都総し、西京左藏庫副使趙守倫と山門の設施を閲視し、法を著す者にのみ上ることを許した。礼が成ると都指揮使に進み保静軍節度に移領。翌年8月没、享年60。侍中を贈られる。
  • 当初、謙が募に応じようとした折、同軍の王仁徳と共に日者に占わせたところ、日者は謙を指して仁徳に「お前はこの人の廐吏になるだろう」と述べ、謙が殿前師に至ると仁徳は果たしてその廐に隷役した。子の懐懿は後に東染院副使、懐詮は内殿崇班閤門祗候となった。

史論

  • 論じて言う。宋初の諸将はおおむね草野から身を起こし戎行から身を立てた者で、盗賊無頼の輩さえその間に混じり、犬肉を売る者や絹を商う者と何ら変わらぬ出自であった。しかし用いられるに及んでみな卓越した働きを見せたのは、御し方が道を得ていたからである。劉福は下を御するに方略があり赴任地では功績を著し、俸禄が厚くとも安逸の謀をなさなかったのは、国を思って家を忘れた者と言えよう。安守忠は辺事に練達し身を慎み謙譲であり、卒校の変を談笑の間に鎮めたのは行権(臨機の処置)に長じた者でなければできない。田仁朗は沈毅で謀があり幾度も征討に従ったが、綏州の役では功がなかったばかりか逗撓の罪に問われた、これは彼の計が拙かったのではなく讒邪に構陥されたためである。
  • 他の子らはみな戦功を積んで通侯に至った。譚延美の開門示敵、常思徳の主帥を翼衞したこと、尹継倫の契丹襲撃、薛超の創を負って戦に赴いたこと、元逹の亡命者への赦免請願、郭密の士卒訓撫は、いずれも忠義仁勇と称するに足る。趙瑫・傅思讓・李斌・劉謙は奇功に乏しいながらもよくその職を共にし過ちの少ない者であった。孔守正は戎旅に練達しながら辺要にしばしば任じられて功を誇り忿りを肆にした、これは勞謙(功を誇らず謙虚である)の君子に対して恥じるところがないと言えようか。