宋史卷二百七十六 列傳第三十五 劉蟠

劉蟠

  • 字は士龍。濱州渤海の人。後漢乾祐2年(949年)、進士に挙げられ益都主簿に解褐。宋初、安遠軍・河陽節度使推官・保義軍掌書記を歴任。乾徳5年(967年)、召されて監察御史を拝し染院事を典る。当初、蘇曉が京城市征を掌り幹練であったが没すると蟠が代わりに選ばれた。この冬、太宗の生辰使を命じられる。開宝7年(974年)、殿中丞劉徳言と共に淮南諸州転運事を知る。
  • 太平興国初、就いて倉部員外郎に遷り転運使に改まる。歳ごとに江東の米400万斛を漕して京師に給し称職とされた。秩満ちると部内の僧道が留任を乞い詔で再任を許され金紫を賜う。駕部員外郎に改まる。太平興国8年(983年)、母の喪に遭うが、諸州の綱運が滞っていたため起復して京城陸路発運司事を知る。折しも河が韓村で決壊し丁夫を大発してこれを塞ぐ際、蟠にその餉を調給させ、まもなく河は塞がった。
  • 朝廷が封禅を議した際、蟠を東封水陸計度転運使とするが、折しも詔でこの礼が罷められる。まもなく工部郎中に遷り河北水路転運使を充て、刑部郎中に改まり、就いて水陸転運使を充て入って本部事を判す。籍田が終わると左諫議大夫に遷る。淳化初、京朝官差遣を同考することを兼ねる。淳化2年(991年)、暴かに中風眩に罹り、上は太医を遣わして視させ金丹を賜ったが没した、享年73。銭10万を賜い喪事に給す。
  • 蟠は性質清介で寡合、苦を攻め淡を食すことができ苛刻を専らとし奇詐を設けることを好み人を知ることに用いた。染院を典る日、太祖はしばしば臨視した。蟠は駕が至るのを偵知するたびに短後衣を着て芒屩を履き梃を持って督役し、頭は蓬々として整えず慌てて出迎えたため、太祖はこれを事に勤めていると見なし銭20万を賜う。
  • かつて詔を受け淮南の茶を巡視した際、民間の私販が多かったので蟠は羸馬に乗り商人を偽って民家に茶を求め、民家は疑わずこれを出したところ即座に擒えて法に処した。子の鍇は初め父の蔭で大理評事となり、咸平2年(999年)、進士に擢第。かつて「幸太学頌」を献じ、真宗が夜中に書を読みこの頌を得て大いに賞讃し輔臣に示して「鍇は幼くして孤児となったが自立できた」と述べた。召されて試され直史館を命じられ、累遷して戸部郎中・塩鉄副使に至った。