譚延美
- 大名朝城の人。躯幹壮偉で若い頃は不逞であった。ある群盗が謀って剽劫を行おうとした際、延美はこれに趨き加わったが、捕らえられた者はみな死罪に処されたところ、延美は盗と面識がなかったため免れた。以後、澶魏の間を往来して郷里の盗となり郷里の人々はこれを患った。
- 後周世宗が澶淵に鎮した折、募られて帳下に置かれ、即位後は殿前散都頭に補し淮南征討で控鶴軍副指揮使に遷る。三関克復に従う。太祖が禁兵を領していた頃は留まって牙隊を督した。建隆元年(960年)、控鶴指揮使に補し都虞候に遷る。
- 湖南征討に馬歩副都軍頭として解暉と行営戦棹都指揮使を分領する。折しも汪端が朗州を急攻した際、招討慕容延釗は延美に兵を率いて赴かせ賊衆を大破し端を擒えて還った。鉄騎副指揮使に抜擢され睦州刺史を領す。4遷して内殿直都知に至る。太平興国初、蘄州刺史となり、廬・寿・濠・光州軍巡検使を歴任し劇賊で害をなす者を悉く捕らえた。太平興国6年(981年)、知威虜軍に徙る。
- 雍熙3年(986年)、北伐にあたり延美は幽州西面行営都監となり田重進と共に飛狐北から出る。まもなく敵に遇い、延美は「敵は衆を恃んで我を軽んじている、不意を突くべき」と語り騎軍を率いて直進、敵兵は潰えようとするところに大軍が続いて至りついにこれを破り首500を斬りその将大鵬翼を獲て献じた。功により本州防禦使に抜擢。翌年、亳州に改まり鎮州鈐轄として出る。
- 端拱元年(988年)、知寧遠軍に徙る。ある日契丹の兵が城下に迫った際、延美は門を開いてこれを示し敵は入らず、数日城を囲んでも門を開いたままで民が芻糧を取りに出るのも平日と変わらなかったため契丹の卒は疑い引き上げた。端拱2年(989年)、邕州観察使に進み判亳州兼知代州。当時、辺郡に任じる者はみな内地の一州も兼ねて家属を置くよう命じられていた。知潞・陝・涇州を歴任。咸平4年(1001年)、左領軍衞上将軍として致仕、咸平6年(1003年)没、享年83。建武軍節度を贈られる。子の継倫は崇儀副使・雍虞部員外郎に至る。