宋史卷二百七十五 列傳第三十四 孔守正

孔守正(開封浚儀の人)は太祖・太宗二代に仕えた武将で、太原親征・晋陽攻略・范陽征討などに従軍して殿前都虞候に至った。北苑の宴で大酔し駕前で忿争する失態も太宗に不問とされるなど厚遇されたが、功を誇り忿りを肆にする点は史論で謙譲を欠くと評された。景徳初、六十六歳で卒し泰寧軍節度使を贈られた。

孔守正

  • 開封浚儀の人。幼くして後唐明宗の子許王従益に仕え、後漢初、東西班承旨として魏王承訓に事えた。後周世宗の淮南征討に材勇により東班承旨に選ばれる。宋初、内殿直に補し驍雄吐渾指揮を兼領。劉廷翰に従い蜀平定から還ると驍雄副指揮使に遷る。
  • 開宝中、太祖の太原親征に守正は何継筠の麾下に隷す。折しも契丹が兵を遣わして晋陽を救援に来た際、守正は石嶺関で交戦し大破、首万級を斬りその将王破得を獲た。宋軍で敵に陥った者数百人があったが、守正は騎軍で馳せ悉く奪い還した。太平興国中、累遷して日騎東西班指揮使に至る。
  • 太宗の晋陽親征に守正は城西洞屋を分主し歩卒を率いて大呼して先登、内侍蔡守恩らと共に騎兵で力戦し晋軍はついに潰えた。范陽征討に従い金台駅に至った際、詔で劉仁贇と共に岐溝関に先趨する。まだ城が下らないうちに守正は夜に垣を超え鹿角を越え機に臨んで橋に近づき、大軍が至ると説いて関使劉禹を降させ、禹は懸橋を解き守正はついに入城しその軍民を撫諭したが、守備は綦廷朗に委ねられた。
  • 行在に赴く途上、契丹の兵が涿州の東にいた際、守正は傅潜と御前東西班を分けて2陣で馳撃、20余里を追撃しその羽林兵数百人を降した。続いて高懐徳・劉廷翰と合兵しこれを追い桑乾河に至ると、契丹はこれ以降塞に近づかなくなった。功により日騎都指揮使に再遷し濡州刺史を領す。端拱初、龍衞都指揮使に遷り長州団練使を領し真定に出鎮。
  • この年秋、潁州防禦使として出るが、まもなく太宗はその戎旅練達を認め龍衞神衞四廂都指揮使を特に置いて授けた。振州防禦使に改領し、翌年、殿前都虞候を拝し容州観察使を領す。ある日、北苑での宴で元武門に入った際、大酔した守正は王栄と辺功を論じて駕前で忿争し儀礼を失した。侍臣が処罰を請うたが上は許さず、翌日二人が殿廷で罪を請うと上は「朕もまた大酔していたのでよく覚えていない」と述べて不問に付した。
  • まもなく定州行営副部署を命じられ、保州へ軍を開くよう詔を受けた際、曹河で敵に遇い数合戦い首30余を梟し馬50匹を獲て上はこれを壮とした。淳化初、高陽関副都部署に抜擢。軍中の小将が校長を罵った際、守正はこれを械送して闕下で裁定を仰ぎ、専決しなかった。
  • 翌年、浚儀恵民河を護り澶州の決河を塞ぎ、就いて知州軍を命じられ慎州観察使に改まる。還って代州部署を領し、幷・代・夏・綏・麟・府三鎮に転じ、李継遷と大横岡で戦い范廷召を援けて塞を出て白池で賊を破り、行荘に至り焚掠すること甚だしかった。代・夏二州部署に改まる。
  • 真宗即位後、再び代州に徙り、咸平初、昌化軍節度観察留後を授かる。守正は「4度雁門の辺亭に任じ久しく安定した、東北に移して自ら効を尽くしたい」と上言。折しも夏人が入寇し定州行営副都部署に改まる。咸平4年(1001年)、彰徳軍留後に移るが風疾により政務が妨げられ安化軍留後に改まる。景徳初、再び不任職として代わられ、当時秋の防備を議していたが守正はなお屡々出征を請うた。上はこれを憐れみ許さなかった。まもなく没した、享年66。泰寧軍節度使を贈られる。