宋史卷二百七十五 列傳第三十四 安守忠
安守忠(字は信臣、并州晋陽の人。後周平盧軍節度使安審琦の子)は蜀・辺境諸州の知事を歴任し謹慤淡薄な政治で知られた武将。淳化二年、知雄州で軍校の謀反騒ぎを笑って収めるなど度量を示した。咸平三年、六十九歳で没し太尉を贈られた。
安守忠
- 字は信臣。并州晋陽の人。父の審琦は後周平盧軍節度使・陳王に封ぜられる。後晋天福8年(943年)、審琦が山南東道に出た際、守忠は牙内指揮使・繡州刺史となる。後周顕徳4年(957年)春、鞍轡庫使に改まり、淮南が初めて下った折、朝廷の宣諭のために馳せ遣わされた。当時藩臣は驕蹇で朝使を軽んじることが多かったが、守忠は正礼を以て抗し命を辱めなかった。まもなく衞州刺史に改まる。
- 宋初、左衞将軍として入る。建隆4年(963年)、湖南平定直後に永州刺史となる。乾徳中、河陰の屯兵を護る。蜀平定後、太祖は遠俗が苛虐に苦しんでいることを知り、南鄭が要衝であるとして特に守忠に知興元府を命じ撫綏させた。乾徳4年(966年)、漢州刺史に改まる。折しも寇難がようやく平らいだ頃で使車が頻繁に往来し公帑が不足していたが、守忠は私財を出して用に充てた。上は使いを遣わすたびに「安守忠は蜀にあって己を律すること正しい、汝も行ってその為人に倣うべきだ」と戒めた。
- 開宝初、濮州刺史に改まる。折しも澶州で河が決壊した際、守忠は潁州団練使曹翰を副えて護役させ河を塞いだ。開宝5年(972年)、知遼州となる。民に密かに并寇に応じて内応を謀る者がいたが事が発覚し、守忠は悉く斬って衆に示した。開宝9年(976年)、太原征討にあたり守忠は孫晏宣と共に遼州から入る詔を受け、路羅砦監押馬継恩と会って合兵し賊境に入り砦40余を焼き牛羊数千を獲た。さらに深く進もうとした議のさなか、上が崩じたため班師した。
- 太平興国初、知霊州に移り在官7年。雍熙2年(985年)、知易州に改まり夏州に徙る。西戎が犯辺するたびに戦って勝たぬことなく、功により濮州団練使を拝す。端拱中、知滄州から瀛州に改まり高陽関駐泊部署を兼ね、瀛州防禦使に遷る。かつて守忠は「濮」の字を方丈余に夢見たことがあったが、瀛州を領してほぼ20年経ってようやく悟ったという。
- 淳化2年(991年)、知雄州に徙る。折しも僚佐と宴飲していた際、軍校が変を謀り甲を着け閽者が慌てて入って告げたが、守忠は言笑自若として坐客を顧み「この輩は酒狂に過ぎない、擒えればよい」と述べ、人々はその度量に服した。翌年、耀州観察使を加え判雄州のまま。まもなく召還され辺事を条陳し帝意に叶い銭500万を賜る。
- 淳化5年(994年)、また知滄州。至道初、雄州に移る。至道3年(997年)、また知滄州、感徳軍節度観察留後を拝し宋州に徙り制置営田使を兼ねる。威徳が共に著しく吏民はその離任を忍びなかった。咸平3年(1000年)、入覲を命じられ還されようとしたが未行のまま暴卒した、享年69。太尉を贈られる。子の継昌は供備庫副使に録され、婿の王世及は光禄寺丞となる。
- 守忠は謹慤淡薄で政治は簡静であった。太祖が藩にあった頃から相厚く、受禅後は優遇された。守忠は益々謙虚に振る舞い、太原征伐に従い謀略に多く参与したが人々にはあまり知られなかった。赴任地では施与を楽しみ士大夫との交遊を喜んだため、時論も多くこれを称した。父の審琦がかつて愛妾のために隷人に害された経緯から、守忠は終生妓妾を蓄えず仏を好んだのはこのことに懲りたためという。