宋史卷二百七十五 列傳第三十四 劉福

劉福

  • 徐州下邳の人。若くして倜儻魁岸で膂力があった。後周顕徳中、世宗が淮南を征した際、福は徒歩で寿春に謁見し、世宗はこれを奇として麾下に留めた。出戦のたびに福に衞士を率いて先鋒とさせ、紫金山砦を破る功があり、淮南平定後に懐徳指揮使を授かる。
  • 宋初、横海指揮使に遷り所部を歩帥劉光毅に隷す。峡路から蜀を征し成都に至った頃には孟昶はすでに降っていた。大将王全斌が降卒を京師に送る途上、綿州で降卒が庫兵を盗み蜀の旧将全師雄を担いで叛き、廬舎を焼き財貨を奪って去った。刺史成彦鐃は同・華の兵百余人で城を守り、全斌は米光緒に700騎と福の部隊で城を護らせたが、光緒が師雄の妻子を皆殺しにしたため師雄は叛卒を率い村民10余万を集め城を急攻した。
  • 折しも龍捷指揮使田紹斌が精鋭100騎で東山から西北へ進み、福は所部で山南から出て賊の不意を挟撃し、賊衆は大潰、斬首・溺死者は万を数えた。功により虎捷都虞候を授かり、続いて曹彬の麾下に隷し江南平定に従い指揮使に遷り蔚州刺史を領す。太宗の并汾征討に従い馬歩都軍頭・武州団練使に遷る。
  • 端拱初、洺州防禦使として出て、端拱2年(989年)、雄州防禦使兼本州兵馬部署に改まる。雄州は辺塞を控え常に重兵が屯していたが、福は城壁を按行し鎮兵を調して修繕させ、私財を出して宴犒し、寇が大挙して至っても恃むところがあった。淳化初、涼州観察使に遷り判雄州事。淳化2年(991年)没、享年64。太傅を贈られる。
  • 福は学がなかったが下を御するに方略があり政を簡易にし人々はその徳を慕った。雄州を領すること5年、郡境は寧謐であった。福が貴くなると子らが大邸宅を勧めたが、福は怒って「わが厚禄で舎を借りて汝らを庇うに足る、尺寸の功を朝廷に報いていないのに邸宅を営むことなどできようか」と語った。没後、上はこの言葉を聞き子に白金5千両を賜い邸宅を市わせた。