宋史卷二百七十三 列傳第三十二 姚内斌

出自と経歴

  • 姚内斌、平川盧龍の人。契丹に仕え関西巡検・瓦橋関使となる。後周顕徳六(959)年、太祖が世宗の北征に従い兵が瓦橋関に次った際、内斌は衆五百人を率い城とともに降り、世宗は汝州刺史とした。吏民が闕に詣で留任を求め、恭帝は詔で褒めた。内斌の本名は宣祖(趙弘殷)の諱に触れるため下の一字を改め今の名とした。李筠平定に従い虢州刺史に改める。西夏がしばしば西鄙を犯したため内斌を慶州刺史兼青白両池榷鹽制置使とし、郡に在ること十数年、西夏は畏伏し敢えて塞を犯さなくなり、内斌を「姚大蟲」(大虎)と号し、その武猛を言い表した。
  • 当初、内斌が降った際、その妻子はみな契丹にあったが、乾徳四(966)年、子の承贊が密かに幽州から来帰し、五(967)年、幽州の民田光嗣らがまた内斌の児女六人を間道から連れて来帰し、太祖はみな召見して衣服・緡銭・鞍馬を賜り中使に護送させた。内斌は開宝四(971)年、闕に召され赴くと帝は甚だ厚く待遇し治所に還らせたが、七(974)年春、突然疾を得て六十四歳で卒した。中使を遣わし喪を護らせ洛陽に帰葬させ、通常の賻贈のほか田三十頃を子に賜った。承贊は供奉官閤門祗候となり陣で死し、承鑑は殿中丞に至った。