出自と経歴
- 李謙溥、字は徳明、并州盂の人。性は慷慨で然諾を重んじた。父の蕘は後唐清泰中、後晋高祖が并門を鎮した際、参謀に署された。天福初年、開封府推官となり契丹に使いした帰り「外国に屈節することは長久の策ではない」と上言した。当時、後晋高祖はまさに契丹に父として仕えており、その言を悦ばず、汝州魯山令に出され官のまま卒した。謙溥は少くして『左氏春秋』に通じ、後晋高祖に従い汴に入り殿直に補せられ契丹に奉使した。少帝即位により西頭供奉官に改め、後漢初、東頭に遷り、後周太祖の三叛討伐および鄴都守備の際、謙溥は往来して密命を宣し太祖に愛された。
- 広順初年、供備庫副使に遷る。世宗が劉崇を征討した際、遼州刺史の張乙が堅壁して下らず、謙溥を単騎で説得に遣わすと乙は城を挙げて降り、功により閑廐使に改める。師が還ると晋州兵馬都監に留められ、偏師で河東境に入りしばしば戦勝をもたらし世宗は詔で褒めた。折しも隰州刺史の孫義が卒した際、世宗は自ら淮南を親征しており、謙溥は節帥の楊廷璋に「大寧は咽喉の要地で守りを欠くことはできません。しかも車駕は出征中で、もし報を待てば孤城は陥落してしまいます」と述べ、廷璋はすぐ謙溥を隰州事の権判に署した。
- 郡に至るとすぐ城隍を浚(ふか)くし兵を厳にして備えさせること八日、并人は果たして数千騎で来寇した。折しも盛夏で謙溥は単衣で扇を持ち二小吏を従えて城に登り徐歩して戦具を按視すると、并人は退舎(退却)した。旬余の後、并人は大いに衝車を発して城を攻めたが、謙溥は敢死の士を募り百余人を得て、短兵堅甲で衘枚(口に枚をくわえ声を立てない)して夜に縄で城から下り、廷璋の兵が至るのに会い合勢して夹撃し、その不意を掩うと并人は大いに乱れ全軍が遁れ去った。追撃すること数十里、十余級を斬首した。これは顕徳四(957)年のことである。翌年五月、孝義県を攻破し功により衢州刺史を領し監軍はそのままとした。
- 世宗の北征に際し行在に召され、恭帝即位により檀州巡検使とされ、莫州の築城を詔され数旬で完成、丹州刺史に改める。建隆四(963)年、慈州に移り晋隰縁邊都巡検を兼ね石州事を行い興同砦を治所とした。この冬、南郊が挙行される際、太祖は四路の進兵で太原の地を掠めることを命じ、鄭州刺史の孫延進・絳州刺史の沈継深・通事舎人の王睿らが陰地から出兵し、謙溥を先鋒とした。霍邑まで至り謙溥は攻取の策を画したが継深らはこれを共に沮んだため延進は用いず軍は還った。
- 白璧関から出て谷口に次った際、謙溥は諸将に「王師が深く敵境に入り今すでに退軍している。彼は必ず我らの隙に乗じるだろう。諸君は備えるべきだ」と語ったが、諸将は答えなかった。謙溥は独り所部に甲を着けさせ、まもなく追撃の騎兵が果たして至り、延進らは慌てて谷中に走ったが謙溥だけは兵を麾いてこれを拒み、并人は引き退いた。まもなく隰州刺史に移る。開宝元(968)年、李継勲らの太原征討で謙溥は汾州路都監とされ、太祖の晋陽征討では東砦都監・前軍副部署となる。党進が謙溥を遣わし西山で木を代(伐)らせ軍用に給しようとした際、まだ至らないうちに鼓声を聞くと并人が西砦に迫り、大将の趙贊がこれを禦いでも并衆は退かず、謙溥は所部を麾いて赴かせた。太祖が急遽至って観戦し援に赴く者が精鋭の甲でないのを怪しみ問うと謙溥であり、帝は甚だ喜んだ。
- 謙溥は州に十年在り敵人は敢えて境を犯さなかった。招収将の劉進という者は勇力絶人であり、謙溥はこれを厚く撫し死力を借りて境上を往来し寡兵で衆を撃った。并人はこれを患い蝋丸書(密書)で間を仕掛け、進が偽ってその書を道中に遺すと、晋帥の趙贊がこれを得て上聞、太祖は進を械にかけて闕下に送らせた。謙溥はその事を詰問すると進は伏して死を請うたが、謙溥は「私は一族四十口をもって汝を保証しよう」と言い、上言して「進は并人に憎まれておりこれは反間の計です」と述べると、奏が至って帝は悟りすぐ釈放を命じ禁軍都校の戎帳服具を賜った。進は感激し敵を撃って自効することを願った。
- 開宝三(970)年、謙溥を召して済州団練使とした。後に辺将が失律(軍律を失う)したことにより再び晋隰縁邊巡検使となり、辺民はこれを聞いて喜び争って道端で迎え労った。六(973)年、兵を率い太原に入り連ねて七砦を抜き、八(975)年、病により帰ることを求め肩輿(かご)で洛に至った。太祖は中使を遣わし太医を伴わせ診させたが、京師に至って病が篤くなり、しばしば章を上げ禄を辞したが許されず、翌年春、六十二歳で卒した。太祖は甚だこれを痛惜し賻贈を加え葬事は官給とした。
- 謙溥は宣祖と同郷であり、弟の謙昇は太祖と布衣の交わりがあり、その母の閻氏はかつて太祖を厚く待遇したため、即位後、しばしば宮中に迎え入れ左右に脇を支えさせ拝を強いず坐して飲食させ旧故を語り賜賚を優厚にした。雍熙中、太宗は許王のために謙昇の娘を夫人に納れ、謙昇を如京副使とした。謙溥の子は允則・允正、允則は寧州防禦使に至り、従子の允恭は内殿崇班閤門祗候となった。
允正
- 允正、字は修巳、蔭により供奉官に補せられ、太平興国中、左蔵庫を掌りしばしば殿に升り奏事した。太宗はその旧故を頗る記憶していた。雍熙中、張平とともに三班を掌り、まもなく閤門祗候となり、四(987)年、閤門通事舎人に遷る。折しも女弟が許王に嫁ぐ際、居第を宋偓に質(担保)に入れていたが、太宗が「爾の父は辺を守ること二十余年、この邸宅だけしかないのに、なぜこれを質に入れたのか」と詰問すると、允正は事情を具さに上奏、すぐ内侍に銭を輦(はこ)ばせ贖い返させ、縉紳はみな詩を賦しこれを頌え美とした。
- 淳化中、戎瀘州の叛蛮を討つよう命じられ西上閤門副使に遷る。太宗は京城の獄囚が淹繋(長期拘留)されていることを慮り允則にこれを提総させた。かつて詔で御史台が開封府司録・司左右軍巡・四排岸司に印紙を給し囚簿を作らせ禁繋の日月を署しその罪犯を条にして歳満で殿最(成績評価)を較べることを請い、詔でこれに従わせた。年を越えて開封府が「京師は浩穰(人口密集)で禁繋は特に多く、御史府の考較の際、胥吏が奔命し推鞫の妨げになっている。しかも欺隠がなければ推校を煩わす必要もない」と上言し、結局これは罷められた。允正はまた左右藏を提点し、しばしば伝に乗り北面の辺要を経度した。五(994)年、衛州の修河部署となり、折しも清遠軍・積石砦の建設に際し瀚海に赴きその役を部分(分担)し、還って西上閤門使・并州駐泊鈐轄を拝し、まもなく張永徳に代わり州事を知り代州に徙る。
- 咸平初年、西蜀に使して民事を尋訪、還って東上閤門使に秩を進め鎮・莫の二州を歴知、また并代馬歩軍鈐轄となる。契丹が辺を擾し車駕が大名に駐屯した際、允正は高瓊とともに太原軍を率い土門路から出て来会し便殿に召見された。所部に広鋭騎士数百がありみな平素から練習していたため、允正に率いさせて入り緡銭を賜り邢州に屯させ石保吉とともに遼人を逐うと遼人は遁れ去った。まもなく兵を大名に集め再び并代に還った。五(1002)年、涇原・儀渭・邠寧・環慶路を合わせて一界とし王漢忠を都部署としたとき、允正を鈐轄兼安撫都監として駅で召し即日出発、また銭若水とともに洪徳・懐安の沿辺諸砦に赴き辺事を経度し誠州刺史を加領した。七月、両路の職を罷め再び并代鈐轄に任じ、銭若水が辺塁を巡按するたび州事を権知することを詔された。
- 四方館使に進み馬知節に代わって鄜延部署兼知延州となり、客省使に改め定州知事兼鎮定都鈐轄となる。大中祥符三(1010)年、しばしば表して還ることを求め、京師に至った頃、汾陰への祀りの際、疾により扈従が難しいとして河陽部署とされ便養させた。折しも張従貴が卒し趙徳明がしきりに侵越したため、急ぎ詔で允正を鄜延部署に徙し、内侍が密詔で存問(見舞い)させた。礼が成った後、河州団練使を領した。允正は頗る書を知り、性は厳毅で財を疎んじ自らを律することを喜んだが、素より痀僂(せむし)を病んでいたため要職近くには稀にしかいなかった。しばしば辺任を典し殺戮が多く、この秋、永興軍知事に徙り、五十一歳で卒した。