宋史卷二百七十三 列傳第三十二 郭進

出自と経歴

  • 郭進、深州博野の人。少くして貧賤で鉅鹿の富家の傭保(雇い人)となった。膂力があり倜儻任気で豪侠と結び、酒や賭博を嗜んだ。その家の少年たちはこれを患い進を殺そうと図ったが、進の妻の竺氏が密かにその謀を知り進に告げ、進は晋陽に走り漢祖に依った。漢祖はその才を壮としその帳下に留めた。後晋開運末年、契丹が辺を擾し漢祖が太原で建号した際、契丹主が道中で殂すると漢祖が汴に入ろうとし、進は奇兵で間道から先に洺州に趣き河北諸郡を平定することを請い、これにより乾・坊二州刺史に累遷。少帝即位により磁州に改め、後周広順初年、淄州に移り、二(952)年、吏民が観察使に留任を求めた。この秋、登州刺史に遷り群盗が居民を攻劫した際、進は鎮兵を率いこれを平定、部内は清粛となり民吏千余人が闕に詣で屏盗碑の建立を請いこれが許された。
  • 顕徳初年、衛州に移る。衛・趙・邢・洺の間には亡命者が多く、汲郡は山に依り河を帯びていて出没しやすく、隙を伺い椎剽(強盗)をなし、吏がこれを捕らえようとするとすぐ遁れ去ったため、数年にわたりその党類が絶えなかったが、進はその情状を熟知しており計を設けてこれを摘発、数月の間に剪滅し残さなかった。郡民はまた碑を立てその事を記すことを請い、詔で洺州団練使に改め善政があり、郡民は再び闕に詣で碑を立て徳を頌えることを請い、詔により左拾遺の鄭起が文を撰し賜った。進はかつて城の四面に柳を植え壕中に荷・芰・蒲・薍を種えたが、後にますます繁茂し、郡民がこれを見て涙を垂らす者があり「これは郭公の植えたものだ」と語った。
  • 建隆初年、太祖の澤潞親征に際し本州防禦使に遷り西山巡検を充て、かつて曹彬・王全斌とともに太原境に入り数千人を獲た。開宝二(969)年、太祖の親征河東に際し進は行営前軍馬軍都指揮使とされ、九(976)年、将を命じて河東を征する際、進を河東道忻代等州行営馬歩軍都監とし、山後諸州の民三万七千余口を招徠した。太平興国初年、雲州観察使を領し邢州を判し西山巡検も兼ね、京城道徳坊の第一区を賜った。四(979)年、車駕が太原征討に向かう前、進に兵を分けて石嶺関を控えさせ都部署として北辺を防がせると、契丹が果たして関を犯し進はこれを大破し西龍門砦を攻破し俘馘を献じ、これより并人は喪気した。
  • この頃、田欽祚が石嶺軍を護り恣に姦利を働くなど不法な行いが多かったが、進は力があってもこれを禁じることができず、たびたび言葉に表した。進は武人で性は剛烈、戦功は高かったが、欽祚が他事でこれを侵し心が甘んじることができず自ら首を吊り五十八歳で死んだ。欽祚は暴卒として上聞し、太宗はこれを悼惜すること久しく、安国軍節度を贈り中使に護葬させた。後にその事情を頗る聞き、欽祚の内職を罷め房州団練使に出した。進は材幹があり財を軽んじ施しを好んだが、性は殺を喜び士卒がわずかでも令に違えば必ず死に処し、家にいても婢僕を御するのも同様であった。
  • 進が西山にあった頃、太祖が戍卒を遣わすたび必ず「汝らは謹んで法を奉じよ。私はなお汝らを貸す(許す)が、郭進は汝らを殺すだろう」と諭した。部下を厳毅に御することはこのようであったが、権道をもって人を任じることに巧みでもあった。ある軍校が西山から闕に詣で進を誣告した際、太祖は詰問してその情状を知り、左右に「彼は過ちがあり罰を畏れ進を誣いて免れようとしただけだ」と述べ、使者を遣わし進に送ってこれを殺させようとしたが、折しも并人が来寇した際、進はその誣った者に「汝が私を論じる勇気があるのは確かに胆気がある。今、汝の罪を許すから并寇を掩殺できれば朝廷に薦めよう。もし敗れれば自ら河東に身を投じるがよい」と述べると、その人は勇んで命に従い果たして戦勝をもたらした。進はすぐこれを聞き奏しその職を遷すことを乞い、太祖はこれに従った。
  • 当初、開宝中、太祖が有司に進の邸宅を造らせた際、すべて筩瓦(筒瓦)を用いさせたが、有司は「旧制では親王・公主の邸以外は用いることができません」と言うと、帝は怒って「進は西山を控扼すること十余年、私に北顧の憂いを持たせないようにしている。私は進を子供のように大切にしているのに、なぜ減らせようか。急ぎ工事を督励せよ。妄言するな」と述べた。太平興国初年、また邸宅一区を賜った。

牛思進

  • 牛思進は祁州無極の人。少くして従軍し膂力をもって聞こえた。かつて強弓を耳に絓(か)けて手で引き満弓にすることができ、また壁に背負って立ち力士二人が乳をつまんで引っ張っても嶷(ぎっ)として動かず、軍中はみなこれを異とした。太平興国四(979)年、平定軍を知り、河東征討に従い石嶺関部署の郭進が卒すると思進が代わった。師が還ると功により本州団練使に改め、七(982)年、右千牛衛上将軍を授けられ致仕し卒した。