出自と経歴
- 李漢超、雲州雲中の人。始め鄴帥の范延光に仕えたが認められず、また鄆帥の高行周に仕えたが親信されなかった。後周世宗が澶淵を鎮した頃、漢超はついに委質(仕官)し、即位により殿前指揮使に補せられ三たび遷り殿前都虞候に至る。宋初、散指揮都指揮使に改め綿州刺史を領し累遷して控鶴左廂都校・恩州団練使を領す。李重進平定に従い、まもなく斉州防禦使に遷り関南兵馬都監を兼ねる。
- 漢超が関南に仕えている頃、ある人が漢超が強引にその娘を妾にしたと訴え、また貸したものを償わない者があることも訴えたところ、太祖は召してこれを問い「汝の娘はどこに嫁ぐべきか」と言うと「農家です」と答えた。また「漢超が来る前、関南は契丹にどうであったか」と問うと「歳ごとに侵暴に苦しんでいました」と答え、「今また同じか」と聞くと「否です」と答えた。太祖は「漢超は朕の貴臣である。彼の妾になるのは農婦であるより優ることではないか。もし漢超が関南を守らなかったら、汝の家の所有もどうして保てただろうか」と述べ、訴えた者を責めて帰した。密かに漢超に「速やかに娘を返し貸した物も返しなさい。朕は暫くお前を許すが、二度としないように。用が足りないなら朕に告げればよいのに、なぜそうしないのか」と諭した。漢超は感泣し死をもって報いると誓った。
- 郡に十七年在り、政平訟理(政治は平らかで訴訟は理にかない)吏民はこれを愛し、闕に詣で碑を立てて徳を頌えることを求め、太祖は詔で率更令の徐鉉に文を撰させ賜った。覇州監軍の馬仁瑀はかつて漢超に兄として仕えたが、しばしば自ら勝手に振る舞い、麾下の卒を遼境に発して人口や羊馬を略奪したため、二将は仲が悪くなった。太祖はこれが変を生じることを恐れ、中使を遣わし漢超・仁瑀に金帛を賜り両者を和解させた。太平興国初年、応州観察使に遷り斉州を判し、そのまま関南巡検を務め、二(977)年八月、屯所で卒した。太宗は甚だ悼惜し太尉・忠武軍節度を贈り中使に喪を護らせた。漢超は士卒を撫することを善くし甘苦をともにし、その死の日、軍中はみな涙を流した。子は守恩という。
守恩
- 守恩は少くして驍果で戦をよくし父の風があった。初め斉州牙職に補せられ、開宝二(969)年、太祖の太原親征に際し漢超が北面行営都監となり、守恩は父の軍に従った。契丹が兵を遣わし河東を援けるため定州西の嘉山に至り土門に入ろうとした際、守恩は牙兵数千騎を率いてこれを撃破し三千級を斬首、戦馬・器甲を多く獲て首領二十七人を捕らえ、漢超に従い行在で見えると戎服・金帯・器幣・緡銭を賜った。太祖は左右に「この稚子はこれほど能く戦う。他日、将帥の才となろう」と語った。
- 漢超の卒後、驍猛軍校に抜擢され累官して隴州刺史に至り霊州を知る。転運使の陳緯とともに芻糧の部隊を率い瀚海を過ぎた際、賊に邀撃され、守恩および子の広文助教の象、隴州衙内指揮使の望、望の弟で寄班の守忠がみな戦没した。真宗はこれを聞き震悼し、特に守恩に洪州観察使を賜り、次子の祐之・順之・用之・潤之・慶之・成之・藏之を録した。