宋史卷二百七十三 列傳第三十二 董遵誨

出自と経歴

  • 董遵誨、涿州范陽の人。父の宗本は騎射をよくし契丹帥の趙延寿の麾下に隷し、かつて事をもって延寿に説いたが用いられなかった。延寿が捕らえられると、旅を挙げて南に漢祖のもとに奔り、漢祖はこれを得て随州刺史に抜擢し、遵誨を随州牙校に署した。後周顕徳初年、世宗の北征に大将の高懐徳(遵誨の舅)が遵誨を表し従行させ、師が高平に次り晋人と遇い戦おうとした際、晋兵の陣が整わないうちに懐徳は遵誨に先んじて奇兵を出させ撃たせると晋人は潰え大軍が続いて進み遂にこれを破った。
  • 二(955)年、秦鳳征討に際し大将の韓通が遵誨を自ら表し従わせ、賊と唐倉で戦った際、先登陥陣し蜀の招討使王鸞を捕らえて献じ秦・鳳の二州を克った。師が還ると前後の功を録され東西班押班に補せられ、また驍武指揮使に遷る。四(957)年、世宗の淮南征討に従い合肥を攻めこれを下し、六(959)年、韓通に従い雄・霸の二州を平定した。太祖が微時(未だ卑しかった頃)、客遊して漢東に至り宗本に依っていたが、遵誨は父の勢いを恃み、太祖はいつもこれを避けた。遵誨はかつて太祖に「私は城上に紫雲が蓋(かさ)のように見えることがしばしばあり、また高台に登り黒蛇に遇う夢を見ました。長さ百尺余りのものが化して龍となり東北に飛び去り、雷電がこれに随いました。これは何の兆でしょう」と語ったが、太祖はいつも答えなかった。
  • 他日、兵戦の事を論じた際、遵誨の理屈がしばしば屈すると衣を拂って立ち去り、太祖は宗本に別れを告げて去った。これより紫雲は次第に消えた。太祖の即位に及び、ある日、便殿で召見された遵誨は地に伏し死を請うたが、帝は左右に扶け起こさせ「卿は往日の紫雲や龍化の夢を覚えているか」と諭した。遵誨は再拝し万歳を呼んだ。まもなく部下の軍卒が登聞鼓を撃ち遵誨の不法十余事を訴えたが、太祖はこれを釈して問わなかった。遵誨がますます惶愧(恐縮)し罪を待つと、太祖は召して「朕はまさに過ちを赦し功を賞そうとしているのに、どうして旧悪を念じようか。汝は再び憂えるな。私は汝を録用しよう」と諭した。
  • 遵誨は再拝して感泣し、また母の所在を問われると「母は幽州にあり患難を経て隔絶しております」と奏した。太祖はそこで人に辺民に賂を贈らせその母を竊かに迎えさせ遵誨に送り届けた。遵誨は外弟の劉綜を遣わし馬を貢して謝すると、太祖は自らの着ていた真珠盤龍衣を解いてこれを齎し賜った。綜が「遵誨は人臣であり、これに当たることをどうして敢えてできましょう」と言うと、太祖は「私はまさに方面(辺境の重責)を彼に委ねようとしている。これを嫌わない」と答えた。
  • 折しも李筠が澤潞で叛くと、遵誨に慕容延釗に従いこれを討たせ馬軍都軍頭に遷り、そのまま留めて鎮守させること三年、召還され再び散員都虞候に遷る。乾徳六(968)年、西夏が辺に近いため通遠軍使を授けられた。遵誨は着任すると諸族の酋長を召し朝廷の威徳を諭し羊を刲(さ)き酒を釃(そそ)ぎ宴犒すること甚だ至れり尽くせりであったため衆はみな悦服した。数月後、再び来て辺を擾したため、遵誨は兵を率い深くその境に入りこれを撃走させ俘斬甚だ多く牛馬数万を獲、夷落は定まった。太祖はその功を嘉し羅州刺史をそのまま拝させ、太宗即位により霊州路巡検を兼領した。
  • 遵誨は書を知らず豁達で崖岸(気取り)がなく方略に富み、強弓を挽くこと、命中の武芸ともに絶人であった。通遠軍にあること凡そ十四年、一方面を安撫し夏人は悦服した。かつて霊武への進奉使の鞍馬・兵器を剽略した者があった際、遵誨は帳下を部署し討とうとすると、夏人は懼れその略した物をことごとく返し伏して罪を請うたが、遵誨はすぐ慰撫し去らせた。これより各人は境を謹んで守り秋毫も敢えて犯さなかった。太祖・太宗の朝を歴任し委遇(信任)は始終替わらず、便宜をもって軍事を制することを許された。太平興国六(981)年、五十六歳で卒した。帝は軫悼(深く悲しむ)すること久しく、中使を遣わし護葬させ賵賻を加等、子の嗣宗・嗣栄を殿直に録した。