宋史卷二百七十三 列傳第三十二 賀惟忠
出自と経歴
- 賀惟忠、忻州定襄の人。少くして勇敢で騎射をよくした。後周太祖が兵を将いて三叛を討った際、惟忠は道端で謁見し自ら武芸があると陳べ、太祖はこれを悦びすぐ所部に留め置いた。開国に及び世宗の帳下に隷し、供奉官への補任を辞さずすぐ入朝すると世宗はこれに怒り、嗣位に及んでも遂に遷擢しなかった。初めは儀鸞副使を授けられ易州を知り辺を捍いで功があり、まもなく正使に遷った。開宝二(969)年、太祖が常山に駐屯した際、惟忠を本州刺史兼易定祁等州都巡検使とし、かつて流矢に中った。六(973)年、金瘡(矢傷)が発して卒した。太祖はこれを聞き嗟悼し、すぐその子の昭度を供奉官とした。
- 惟忠は性剛果で書を知り兵法に洞暁し方略があった。易州にあって亭障(見張り台)を繕完し士卒を撫しその死力を得た。塞を乗り用兵するたび向かうところ必ず克ち威名は北辺に震え、これにより十余年の間、契丹は敢えて南牧しなかった。昭度は西京作坊使に至り、淳化中、通遠軍を知る際、罪あって棄市に当たるところを減死し商州に流された。