出自と経歴
- 何継筠、字は化龍、河南の人。父の福進は後唐から後周まで仕え累官して忠武・成徳・天平の三節度に至る。継筠は幼時、群児との遊びで必ず行伍を分け戦陣の様を演じた。後晋初年、殿直に補せられ、後周太祖の三叛討伐に際し継筠は表され従行、賊平定後は供奉官に改める。広順初年、福進が真定を鎮し継筠を衙内都校に署し、偏師を率いて土門を出て并人(北漢)と戦い数千級を斬首、功により欽州刺史を領す。契丹将の高模翰が二千騎を率い深冀を擾し葦筏で胡盧河を渡った際、継筠は虎捷都指揮使の劉誠誨とともに兵を率いこれを拒ぎ、武強で老幼千余人を獲て模翰は遁れ去った。
- まもなく福進に従い入朝し内殿直都知となり、福進の卒後は起復して濮州刺史に復し兵を率い静安軍を戍り、契丹の侵入を継筠は逆撃して破り棣州刺史に改める。世宗の瓦橋関征討では継筠に所部兵を率い百井道から出させ并人数千衆を破らせた。恭帝即位により西北面行営都監とされる。建隆二(961)年、棣州を団練州に昇格させ継筠をその使とし、三(962)年、関南兵馬都監を命じられ、乾徳四(966)年、本州防禦使を加える。開宝元(968)年秋、昭義節度の李継勲らの太原征討に継筠を先鋒部署とし、渦河で并人と遇いこれを撃走、汾河橋を奪い城下でその衆を破り馬五百匹を獲てその将の張環・石贇を捕らえて献じた。
- 二(969)年春、太祖の晋陽親征に際し契丹が援軍を出した際、継筠は陽曲県に屯兵していたが駅で行在に召され、方略を授けられ精騎数千を率い石嶺関に赴き契丹を拒ぐことを命じられ、帝は「翌日の正午には卿の勝報を待とう」と語った。期日になり帝が北台に御して待っていると一騎が北から来て、急ぎ問わせると継筠の子承睿が勝利を献じるものであった。刺史二人を生け捕り、生口百余人を獲て千余級を斬首、馬七百余匹・器甲を多く獲た。当初、并人は契丹を後ろ盾としていたが、勝報が奏されると太祖は獲た首級・鎧甲を城下に示させ并人は喪気した。
- 継筠は功により建武軍節度を拝し棣州を判す。三(970)年、来朝すると詔で鞍馬・戎仗を賜り辺を戍らせた。四(971)年秋、来朝した際、背に疽を発し、車駕がその邸に幸し賜賚甚だ厚かったが、まもなく五十一歳で卒した。帝は自ら臨み流涙し、従容として侍臣に「継筠は捍辺に功があった。朕が早く方鎮を授けなかったのは、その数(運命)を奇とする(気にかけていた)だけだ。今、ようやく節制を領したばかりで果たして淪没したのは実に惜しい」と語った。侍中を贈り絹五百匹を賻し、中使に喪を護らせその生前佩びた剣と鎧を同葬させた。継筠は深沈で智略があり、前後の辺備二十年、士卒と甘苦をともにしその死力を得、辺情を推し量るのに巧みで、辺人はこれを畏伏し多く画像を作って祠った。子は承矩という。
承矩
- 承矩、字は正則、幼くして棣州衙内指揮使となり継筠に従い劉崇を討ち、その将胡澄を捕らえて献じた。開宝四(971)年、閑廐副使を授けられ、太平興国三(978)年、漳泉の陳洪進が土地を納めた際、承矩に詔して伝を乗り泉州兵を監させ、仙遊・莆田・百丈の寇賊が嘯聚した際、喬維岳・王文宝とともにこれを討ち平定、功により閑廐使に遷る。民を害する政の弊数十事を疏して上奏するとすべて容れられ、使名を改めるにあたり崇儀使とされた。五(980)年、河南府を知る。当時、丁男百十輩を上供綱の転送に調発していたが、承矩はこれを横役とし上奏して罷めさせた。
- 潭州知事に徙り六年在職、囹圄(獄舎)は屡々空になり詔で嘉奨された。六宅使に入り、端拱元(988)年、潘州刺史を領し河陽の屯兵を護すことを命じられた。米信が滄州を知る際、吏事に習熟していないとして承矩に節度副使を知らせ実際は郡治を専らにさせた。契丹が辺を撓した際、承矩は上疏し「臣は幼くして先臣に侍し関南の征行に従い、北辺の道路や川源の地勢に熟知しています。もし順安砦の西で易河・蒲口を開き水を東へ導いて海に注げば、東西三百余里、南北五七十里、その陂沢を資として堤を築き水を貯え屯田とすれば敵騎の急襲を遏止できます。数年もすれば関南の諸泊はすべて水に満ち、それを稲田に変えられ、水辺の州軍は城守の軍のみとし兵を煩わせずに広く戍り地利を収め辺境を実にでき、険を設けて防塞を固め、春夏は農を課し秋冬は武を習わせ民力を休ませ国を助けることができます。数年でこうすれば彼は弱く我は強く、彼は労し我は逸するでしょう。これが禦辺の要策です。順安軍より西の西山に至る百里ほどの水田がない地も精鋭を選んで戍らせるべきです。兵は寡(少ない)ことを患いとせず驕慢で精でないことを患いとし、将は怯えることを患いとせず偏見で無謀なことを患いとします。兵が精で将が賢であれば四境は枕を高くして憂いなくなりましょう」と述べた。太宗はこれを嘉納した。
- 折しも霖雨が災いとなり、典者(担当官)の多くはこれが不便であると議したが、承矩は漢魏から唐に至る屯田の故事を援用してこれを論駁し、必ず行うべきと務めた。承矩を制置河北縁邊屯田使とし役事を董させた(詳細は『食貨志』にある)。これにより順安以東、瀕海広袤数百里はすべて稲田となり、莞・蒲・蜃・蛤の利も豊かとなり民はその利を頼った。淳化四(993)年、西上閤門使に抜擢され滄州を知り、年を越えて雄州に徙り、御書と印紙でその功最を録され弓剣を賜られた。承矩は誠を推して衆を御し甘苦をともにし、辺民が機事を告げに来ると左右を退けて欵接し猜疑を持たなかったため、契丹の動静を常に前もって知ることができた。
- 至道元(995)年、契丹の精騎数千が夜に城下を襲い鼓を伐ち火を放って楼堞に迫った際、承矩は兵を整えて出て拒み、夜明けまで陣を列し酣戦を続けて久しく斬馘甚だ多く、その酋である「鉄林相公」と呼ばれる者を捕らえ契丹は遁れ去った。この年の春、府州が契丹の衆を破ったことがあり、承矩はその殺獲を条にして州民に諭し、あるいは市に掲げたところ、契丹はこれを恥じ憤り、これによりこの一戦が起きたのであった。太宗は承矩が軽率に寇を招いたと考え、滄州の安守忠と両者の任を交換させたが、魏廷式が河北に使した際、雄州の功状を得て抗表し上言、また内侍の劉勍を遣わし実情を核べさせると麾下の士で功ある者が千余人あり、みな進擢賚賜された。真宗嗣位により再び雄州を知ることを命じられた。
- 承矩に詔を賜り「朕は鴻業を嗣ぎ守り永図を懐い、華夷とともに富寿を臻すことを思う。契丹は太祖在位の日から先帝が統を継いだ初め、和好往来し礼幣が絶えなかったが、その後、汾晋を克復してから疆臣が地を貪り事を生じ信好が通じなくなった。今、聖考が上仙し(先帝の崩御)礼として訃告すべきである。汝は辺要の任にあり詩書に洞暁し、事機あれば必ず軽重を詳究できよう。得中を務めよ」と述べた。承矩は契丹に書を貽り懐来の旨を諭したが、まだ要領を得られなかった。咸平二(999)年、契丹が南侵した際、しばしば内侍を遣わし密詔で禦遏の計を問い密封して献じさせた。
- 詔で辺民が拒馬河を越え北市に赴くことを聴すという議があった際、承矩は「縁辺の戦棹司は淘河から泥姑海口まで屈曲九百余里、これは天険です。太宗は砦十六・舖百二十五を置き、廷臣十一人・戍卒三千余・部舟百艘を往来巡警させこれで姦詐を屏いました。これは緩急に備える大要害です。今、公私の貿易を聴せば人馬が交度し(往来交錯し)大変不便であり、砦や舖もみな虚設と化しましょう」と上言し、疏が奏されるとすぐに前の詔は停められた。しばしば手札で褒飭された。三(1000)年、召還され引進使を拝す。州民百余人が闕に詣で馬を貢し留任を乞い、詔書で嘉奨され再び承矩を派した。
- 承矩は「契丹は軽率で統制がなく、貪欲で親しみがなく、勝てば譲り合わず敗れれば互いに救わず、馳騁を容儀とし弋猟を耕作の代わりとし、風雨に晒されても労とせず露宿しても苦とせず、また騎戦の利を恃むため頻年犯塞します。臣が聞くに、兵には三陣があり、日月風雲は天陣、山陸水泉は地陣、兵車士卒は人陣です。今は地陣を用いて険を設けるべきで、水泉によって固めを作り陂塘を建設し滄海に連ねれば、たとえ敵騎があってもどうして突破できましょう。先に契丹が辺を犯した際、高陽の一路は東に海を負い西に順安に抵り士庶は安居していました。これが屯田の利です。今、順安から西の西山までは地が数軍にわたり道は僅か百里で、たとえ丘陵岡阜があっても川瀆泉源が多く、これを広げて塘埭を作れば辺患を息(やめ)ることができます。
- 今、縁辺の守将の多くはその才でなく詩書を悦ばず礼楽を習わず疆界を守ることができず制御に方策がなく、動けば国事を誤ります。たとえ貔虎の師を提げても犬羊の衆を遏することはできません。臣が兵法を按ずるに、およそ用兵の道は計をもって校べその情を索める、すなわち将の孰れが能を有するか、天地の孰れが得か、法令の孰れが行われているか、兵衆の孰れが強いか、士卒の孰れが練れているか、賞罰の孰れが明らかか、を問います。これは敵を料り勝を制する道であり、これを知って戦えば必ず勝ち、そうでなければ必ず敗れます。慮なくして敵を軽んじる者は必ず人に擒にされます。伏して疆吏を慎重に選び辺民の牧守に出し、俸禄を厚くしてその心を悦ばせ、威権を借してその令を厳にすることを望みます。
- その後、深溝高壘、馬を秣(か)い兵を厲(みが)き戦守の備えとし、仁を修め徳を立て政を布き恵を行い、広く安輯(安撫)の道をなし、士卒を訓じ田疇を闢き農耕を勧め芻粟を蓄えて凶年に備え、長戟を完くし勁弩を修め烽燧を謹み保戍を繕って外患を防げば、来れば禦ぎ去れば備えられ、辺城は按堵(安泰)でありましょう。臣はまた聞くところによれば、古の明王は吏民を安集し俗に順って教え、良材を簡募して不虞に備えました。斉桓・晋文はいずれも兵を募って隣敵に服させました。強国の君は必ずその民を測り、胆勇ある者を集めて一卒とし、進戦を楽しみ効力して忠勇を顕す者を集めて一卒とし、高きを踰え遠きに赴け足の軽い善闘の者を集めて一卒としました。これら三種の兵は内に出れば囲みを決し外に出れば城を屠ることができます。
- ましてや小と大は形を異にし強と弱は勢いを異にし険と易は備えを異にします。身を卑しくして強に事えるのは小国の形、蛮夷をもって蛮夷を伐つのは中国の形です。故に陳湯は西域を統べて郅支を滅ぼし、常恵は烏孫を用いて辺部を寧んじました。胆勇で戦いを楽しみ足の軽い者を集めるのは古来の良策と称され、これを試行することを請います。また辺鄙の人は多く壮勇を負い外邦の情偽を識り山川の形勝を知っています。辺郡に営を置いて召募し、人材の品度は求めず、少壮で武芸ある者一万人を集めれば、契丹に警あれば智勇の将にこれを統べさせ用いることができ、必ず功を顕せましょう。これが中国の長算(長期の戦略)です。
- また榷場の設置は先朝が権をもって制を立て契丹を恵んだものであり、たとえ渝信犯盟(信を破り盟を犯す)があっても廃さなかったのは大体を全うするに似ています。今、縁辺の榷場は犯塞のたびすぐ停罷されますが、去年、臣の上言で雄州に場を置き茶を売り、貲貸(貸借)は並行しても辺氓(辺民)には未だ済われるところがありません。大臣を延訪してその可否を議し、あるいは文武に独議を抗執する者があれば必ず別に良謀があるはずですから、これを辺任に委ね方略を施させ成功を責めるべきです。もし空しく浮議を陳べて聖聴を上惑するだけなら、ちょうど霊州がその証験です。ましてこの契丹は夏州の比ではありません」と述べた。
- 咸平四(1001)年十月、乾寧軍に鋭兵を選び刀魚船を挽き界河から平州境まで直趨し西面の勢いを牽制することを建議した。五(1002)年、詔で制置屯田使を兼領し初めて榷場を建てた。ある者は承矩の意が継好にあると言ったが、契丹は無厭でとても誠信するには足りず、徒に公然と窺伺させるだけであった。折しも契丹が斥候の卒を殺したことがあり再びこれを罷めた。この頃、契丹はしばしば辺城を窺い大浚渠(大運河工事)を頗る妨害した。詔により承矩は兵を握って深く敵境に入りその勢いを分けることとしたが、承矩は騎兵がないため数千卒を混泥城から出して襲わせて還った。
- 景徳元(1004)年、入朝し英州団練使に進んで領し、真宗は宰相に「承矩は読書し名を好み才能を自任している。善地を選んで処すべきだ」と語った。冬、澶州知事に出た。承矩は守辺以来、朝廷が遠人を懐柔し息兵の計をとることを常に望んでいたが、この時、車駕が本部を按巡し契丹との和議が成ったことをますます歎賞した。韓杞(契丹使者)の到着に際し郊労を命じられ、翌年春、再び雄州を知る。この年、契丹が初めて使いを遣わし幣を奉じた。承矩は朝廷の待遇の礼が悠久に行える方策をすべて疏して奏し、手詔で嘉納され、事に未だ尽くさぬところがあれば便宜で裁処することも聴された。
- 三(1006)年、真拝で雄州団練使となる。時に辺兵はやや息み農政が未だ修まらず、また縁辺安撫使を置き承矩をこれに任じ、詔で辺民を誘って復業させることとしたが、承矩は「契丹がこれを聞けば必ず自分たちの部属を誘うものと思うだろう」と述べ、詔文を改めて水旱による流民の意とした。王欽若が時に枢密を知り、漢の蟲逹・周仲居の故事を援用して詔を改めた承矩の罪を請うたが、帝は「承矩は辺に任じ功があり、優しく遇すべきだ。ただし今後、朝旨が不便な場合は奏禀して進止せよ」と述べた。承矩は識鑑に頗る優れ、長沙を典していた頃、李沆・王旦を佐としてこれを厚く待遇し、公輔の器ありと見なした。占術を推歩することにも優れ、自ら冥数(寿命)を知り、老病を理由に僻郡を求め、詔で自ら後任を選ばせると承矩は李允則を推挙、承矩は齊州団練使を授けられ赴任、着任わずか七日で六十一歳で卒した。
- 特に相州観察使を贈られ銭五十万・絹五百匹を賻し中使が喪を護った。子の亀齢を侍禁とし、昌齢・九齢を殿直とし、遐齢を斎郎とした。縁辺の泊涿・易州の民は承矩の卒を聞き、みな相率いて雄州に詣で発哀(喪を発し)し僧に飯を施した。昌齢は齊王の女で太和県主を娶り内殿崇班に至った。昌齢の子の象中は閤門祗候となった。