出自と経歴
- 楊美、并州文水の人。本名は光美、太宗の旧名を避け改名。美は状貌雄偉、武力は絶人し、豪侠を自任した。後漢乾祐中、後周太祖が三叛を征する際、美は杖策(杖をついて)軍門に詣で謁見を求め、太祖は召して語りその壮を認め帳下に留めた。広順初年、禁軍大校に累遷、世宗の淮南征討に従い功により鉄騎都指揮使に抜擢され白州刺史を領す。太祖は美と旧知の間柄であり即位により内殿直都知とした。
- 建隆三(962)年、青州北海県を軍に昇格させ美を軍使とし、政は簡易を尚び民はみなこれを徳とした。乾徳二(964)年、召還される際、北海の民数百人が闕に詣で留任を乞い、詔で諭しても去らず、首謀者を笞刑にしてようやく止んだ。馬歩軍都頭に遷り、蜀討伐に際し帰州路戦擢左右廂都指揮使とされ、蜀平定後は内外馬歩軍副都軍頭に遷り恩州団練使を領す。開宝二(969)年、端州防禦使に改領し、六(973)年、都軍頭を加え宣州観察使を領し、まもなく虎捷左右廂都指揮使を授けられ河西軍節度を領す。党進・潘美の太原征討に際し美を行営馬軍都虞候とし、太平興国二(977)年冬、保静軍節度に出て、三(978)年夏、疾により解官を求め京師に帰り医薬を求めた。
- 詔で内侍と道士の馬志を遣わし診させたが、まもなく四十歳で卒した。侍中を贈られ中使に護葬させた。美は人となり任気で施しを好み、賜与や俸禄を得るたびすべて親戚故旧に分け与えたため、死の日には家に余財なく、人々は多くこれを嘆息した。