出自と経歴
- 李進卿、并州晋陽の人。少くして驍勇をもって護聖軍に隷す。後晋天福中、杜重威が師を率い安重栄を宗城で破った際、進卿は力戦して功があり興順軍校に抜擢される。後周太祖の開国により本部兵を率い霊寿を戍ることを命じられ、久しくして龍捷指揮使に遷る。顕徳初年、世宗の高平の戦いに従い鉄騎指揮使に改め、散員左射都校を歴任し鉄騎および内殿直都虞候に改める。宋初、貴州刺史を領し三たび遷り鉄騎左廂都指揮使・乾州団練使を領し、乾徳初年、控鶴左廂都指揮使に遷り漢州団練使に改め、三(965)年、虎捷左廂都指揮使に転じ澄州団練使を領す。
- この年の冬、蜀征討に際し進卿は帰州路行営歩軍都指揮使とされ、巫山砦を抜き夔・万の二州を下した。蜀平定後、功を録し侍衛親軍歩軍都虞候を拝し保順軍節度を領す。開宝二(969)年、太祖の親征河東に際し進卿は在京都巡検に留められ、潁州刺史の常暉・淄州刺史の韓光愿とともに河南北巡検に分かれた。還ると親軍馬軍都虞候に改め、六(973)年、歩軍都指揮使に遷り静江軍節度を領し、五十九歳で卒し侍中を贈られた。子は延渥・延信、延信は内殿崇班に至った。
延渥
- 延渥は蔭により供奉官に補せられ、まもなく閤門祗候となり三たび遷り西京左藏庫使に至る。咸平初年、平戎・寧辺・順安軍・保州・威虜軍の鈐轄を歴任し、また冀州を知り、六(1003)年、瀛州に徙る。景徳初(1004)年、契丹が大挙して辺を擾し胡盧河を経て関南を越え十月に城下に至り昼夜鼓譟し四面から夾攻、旬日にしてその勢いはますます張り、鼓を打ち木を伐る音が絶えず、奚人に板を負わせ燭を持たせて城壁を登らせた。延渥は州兵の強壮な者を率い、巡検の史普の部下を集め、城に登って礧石(投石)と巨木を発してこれを撃つと死体が積み重なって落ち殺傷甚だ多かった。
- 翌日、契丹王とその母が自ら衆を鼓舞して急撃し矢を雨のように放ったが、延渥は兵を分けて拒守しますます堅く、契丹はついに遁れ去った。死者三万余、傷者はその倍、獲た鎧甲・兵矢・竿牌数百万を駅書で報告すると、延渥に錦袍・金帯、将士に緡銭が賜られ、延渥は本州団練使に遷った。通判の太子中允陸元凱は国子博士とされ緋を賜り、推官の李翔は太子中允に、録事参軍の蔡亨は右賛善大夫に、侍禁で兵馬監押の王誨・殿直で貝冀同巡検の史普は内殿崇班とされ職はそのままとされた。
- 当初、戍棚に垂らした板で城を護っていたのはわずか数寸しかなかったが、契丹が射た矢は二百余りもその上に集まった。城の修葺を請う際、詔でその板を取り寄せ見ると、真宗はその労を頗る称えた。城守の際、陸元凱が流矢で顔を撃たれ、史普が勇敢で敵を避けなかったことを聞き、元凱を屯田員外郎に、普を尚食副使に再び遷したが、普はまもなく卒し、その子の昭度を右侍禁に、昭儉を奉職に録した。景徳二(1005)年、延渥は邢州知事に徙り、天雄軍・貝州副都部署、冀・貝・博三州知事を歴任、大中祥符八(1015)年、入朝し病により連続で告を賜り右領軍衛大将軍・演州団練使に改められ、翌年、その願いにより左武衛大将軍で致仕、天禧初年、卒した。子の宗禹は内殿崇班となった。