出自と経歴
- 司超、大名元城の人。初め邢帥の安叔千に仕え、後漢祖が太原にあった頃、超は往きて依り帳下の小校となった。後漢祖が河を渡ろうとした際、超を先に晋・絳から河陽に赴かせ、汴に入るに及び超は鄆州必敵指揮使とされた。当時、京東諸州の寇盗が充斥する中、超を宋・宿・亳三州遊奕巡検使とし、宿州西固鎮守禦都指揮使に改め穎州下蔡鎮に屯を移し、しばしば淮人と戦い功があった。後周世宗が宰相の李榖に淮南討伐を命じた際、超は歩軍先鋒副都指揮使となり、また廬・寿・光・黄等州巡検使となり、盛唐県で淮人三千余衆を大破し戦船四十余艘を獲て監軍の高弼・果毅指揮使の許萬を捕らえて献じた。黄州が未だ下らないうちに超は遥かに刺史を領するよう命じられ楼櫓戦櫂右廂都校を兼ね、師が還ると光州刺史に改め呉軍千余を麻城の北で破った。
- 顕徳四(957)年冬、王審琦とともに舒州を攻め呉軍三千を破り刺史の施仁望を先に捕らえて行在に献じ、これにより超は舒州団練使とされた。宋初、宋偓に副して舟師を率い江徼を巡撫、月余で特に舒州を防禦州に昇格させ超を使とした。太祖の李重進討伐で前軍歩軍都指揮使とし、平定後は治所に帰され、建隆三(962)年春、蔡州防禦使に遷る。乾徳六(968)年、絳州防禦使に改め晋州兵馬鈐轄に徙り、この秋また趙贊に副して邠州行営都部署として河東を進攻。太祖の親征では行営前軍歩軍都指揮使を改め鄭州防禦使に改める。開宝七(974)年、朝廷が江左(南唐)を討とうとした際、超が久しく淮右にあり江山の険易に習熟していたことから蘄州防禦使に徙り、淮西に至る途上で卒した。享年七十一。天禧元(1017)年、孫の文睿を録して三班奉職とした。
史論
- 昔、許子が師で卒すると加等して葬り、『春秋』はこれを書して臣節を褒め官守を戒めた。楊業・荊罕儒・曹光実はいずれも捍城の任にあたり、戎に臨み力戦してその境で戦没した。罕儒は勇を恃んで戒めず、光実は賊の継遷の言に甘んじたのは輕敵(敵を軽んじた)に失があったが、その身を忘れ節に殉じたことは誠に嘉すべきである。業は太原の驍将で、太宗の寵遇に感じ報いようとしたが、常勝の家も千慮の一失があった。しかしその素より士心を得ていたことは部卒が離れることを忍びずこれに従い没したことでも窺い知れる。忠義の風とはこのようなものである。
- 嗣と延昭はともに勲伐を継承し、延昭は久しく辺閫にあり戎を総べ士を訓じ威名方略が敵にも聞こえたが、嗣に対しては優れていたと言うべきである。張暉は危急の時には陥陣の功があり平時には息戎(用兵を止める)の諌があった。司超は淮海を頻戦して清め、その忠誠果勇はいずれも尚ぶべきものである。