宋史卷二百七十 列傳第二十九 李符

出自と経歴

  • 李符、字は徳昌、大名内黄の人。後漢乾祐年間、郭従義が趙思綰を京兆で討った際、幕府に辟され、京兆府戸曹掾として表され、郿県主簿・保義軍節度推官を歴任、母の喪により去官、服除後は汝州防禦判官に転じ州事を権知す。右庶子の楊恪が大理正に推薦、乾徳中、帰州転運司制置を知り朝廷に帰り、京西諸州の銭帛が登らないため京西南面転運事を知り、便宜百余条を奏して四十八事を令として著すよう命じられ緋魚を賜り、奏対が旨に称い起居郎に遷る。荊湖転運の許仲宣が随軍して南唐を討った際、符は荊湖に赴き芻糧を調発、船数千艘を率い流に順って下り事が終わって金紫を賜った。符はまた横江河を鑿ち漕運を通すことを建議し、和州三県の丁壮を発してその役を給した。
  • 太祖が西京に幸し南郊で事を行おうとした際、符は上書し八難を陳べた――京邑凋弊が一、宮闕不備が二、郊廟未修が三、百司不具が四、畿内民困が五、軍食不充が六、壁塁未設が七、千乗万騎の盛暑扈行が八、と。これにより礼は行われず京師に帰った。比部員外郎に改め刑部を判す。太平興国初年、駕部に遷り祠部郎中に転じ広州を知り転運使を兼ね、二(977)年、符は海外諸城および嶺外の花木を図って各一を献じた。在任中善政があり民は生祠を立てた。五(980)年、右諌議大夫に召され吏部銓を判し大理寺を兼ね、三司副使の范旻が罪を得た際、符が代わり白金三千両を賜った。車駕が大名に幸した際、行在三司を領したが、まもなく官属と課最を競った罪により罷職本官に復し、七(982)年春、開封尹の秦王廷美が西京守に出た際、符が開封府を知ることとなった。
  • 廷美の事が発覚すると太宗は符に第に帰り省過するよう命じ、趙普は符に「廷美が西洛にいるのは便でない、変が有るのを恐れる、遠郡に遷して人望を絶つべきだ」と上言させ、これにより房陵への貶が起こった。普は言葉が漏れることを恐れ、符が用刑不当であるとして寧国軍行軍司馬に貶した。盧多遜が崖州に貶されたとき、符は普に「珠崖は遠く海中にあるが水土はかなり良い。春州は近いが瘴気が甚だ毒で行った者は必ず死ぬ。多遜をそちらに徙してほしい」と言ったが普は答えなかった。それより先、太宗が京尹の頃、符は宋琪の推薦により弭徳超が藩邸に仕えることを知り、符が徳超を降格すると再三その冤を訴えたが、徳超が事により貶された際、帝はその朋党を悪み符を嶺表に徙し、普が符を春州知事に移し、郡に至り歳余で五十九歳で卒した。
  • 符は文学はなかったが吏幹があり、人主の意に投じて進用を求め、終にこれで敗れた。至道二(996)年、郊祀に際し右諌議大夫を追復され、祥符五(1012)年、子の璜を録して将作監主簿を試させた。