出自と経歴
- 侯陟、淄州長山の人。後漢末年、明経に挙げられ、後周広順初年、校書郎を試し西州回鶻国信使判官となり、還って雷澤主簿に補せられる。司門員外郎の姚恕が四度陟を推薦し、襄城令・汝州防禦判官・濮陽襄邑令を経て、建隆初年、寃句令となり清幹をもって聞こえ、二(961)年、左拾遺に抜擢され知県事を兼ねた。節度の袁彦が不法多い中、陟は抗章してこれを言い、彦は謝罪と無罪の自陳を表したが太祖もこれを窮治しなかった。四(963)年、本県の屯兵を兼領させられ、まもなく淮南転運使に改められ緋衣・黒銀帯を賜り右補闕に遷る。乾徳三(965)年、侍御史に改め、翌年、左司員外郎・度支判官として入る。朝議で本官のまま省事を領させようとしたが度支員外郎に改め判官を充てた。
- 開宝五(972)年、再び左司員外郎となり、六(973)年、吏部銓を権判し、まもなく金紫を賜り、十二月、戸部員外郎知制誥の王祐らとともに貢挙を知る詔を受けたが未錮宿のうちに揚州知事に出た。師を出して金陵を収める際、陟は所部を率い南唐軍千人を宣化城で敗ったが、まもなく部下に訴えられ闕に召され、陟は理屈が窮まると盧多遜に哀を求め、多遜は素より陟と善く画計した。当時江表は未だ拔けず、太祖は用兵に厭き、南土の暑気酷しく軍卒に疫死が多かったため休兵を議していたが、陟がちょうど揚州から来て金陵が危急であることを知り、多遜は急変を上告し見えるよう促した。陟は病中であったが人に扶けられて登殿し、大声で「南唐平定は目前です。陛下はなぜ班師しようとするのですか。願わくば急ぎ取ってください。私が陛下を誤らせたなら三族の誅を受けます」と言い、左右を退け升殿を問うと、以前の議は寝められ、陟の罪も赦され再び吏部選事を知ることとなった。
- 太平興国初年、戸部郎中に遷り、まもなく選人の妄冒の事が陟の南曹に関わるものと発覚し雷徳驤が奏劾しようとしたが、陟は便殿に自首し出て河北転運使となる。太原征討では太原東路転運使となり、駕還の際、鎮州に先に還り上都の供頓・軍需に功があり左諌議大夫に遷る。五(980)年、貢挙を同知す。開宝末年、趙普が中書にあった際、陟はかつて上疏してその短を言っていたが、この頃、普が再び入相し陟は大いに憂恚した。六(981)年、南郊が終わり給事中を加え、七(982)年、三司使の王仁贍が左降された際、陟は王明とともに三司を判し、八(983)年、卒し工部尚書を贈られた。陟は吏幹があり性狡獪で進むを好み権貴によく仕え人を巧みに中傷した。太祖はかつて刑部郎中の楊克讓を召して坐を与え語り、大用の旨を諭したが、陟は素より克讓を忌みこれを偵知し、事を奏する際、帝が「楊克讓を識っているか」と問うと、「臣は克讓とよく親しく、才ある佳士であることは知っています。近ごろ、自ら陛下から大用の許しがあったと言い、白金を多く買って飲器を作り自ら奉じていると聞き、私はいささか怪しんでおります」と答え、帝は怒りすぐさま克讓を郡に出した。陟の険詖はこのようであった。