宋史卷二百六十八 列傳第二十七 王顯

開封の人、字は徳明(?–1006年頃)。太宗の側近から樞密使に抜擢されたが、失誤により随州刺史に降格された。地方官として蜀・河北の辺境で献策を重ね、真宗朝で再び樞密使に復帰した。学識に乏しいとされたが辺政への見識は評価された。

年表(7件)

王顕

  • 字は徳明。開封の人。初め殿前司の小吏であった。太宗が藩邸にあった折、しばしば左右に給事した。性格は謹介(謹直で潔癖)で狎れることを好まず、市肆を歩いたこともなかった。即位後、殿直に補されやや遷って供奉官。太平興国3年(978年)、軍器庫副使を授かり尚食使に遷る。1年後、郭昭敏と共に東上閤門使、太平興国8年(983年)春、宣徽南院使・兼樞密副使を拝す。この夏、制により樞密使を授かる。
  • 帝は「卿は世家の出で本来儒であったが、若くして乱に遭い学を失った、今は朕の機務を掌り群書を博覧する暇もないだろうが、『軍戒三篇』を熟読すれば面墻(無知)を免れられよう」と述べ、この書と道徳坊の邸宅一区を賜った。
  • その後在位が長くなるにつれ機務は益々繁多になった。副使の趙昌言・寇準は共に鋭気で顕を軽んじ、顕がしばしば失誤しても護短(体面を守り誤りを認めない)で改めようとしなかった。帝は毎度これを面と向かって戒めた。
  • 淳化3年(992年)8月、詔で厳しく責められ随州刺史・充崇信軍節度観察等使に降格され赴任させられた。まもなく知永興軍、延州に転じる。当時夏台・益部で寇擾があり、顕は上疏して「近年戎事は絶えず、李継遷は靈夏で恩に背き、王小波は巴卭で紀を乱し、河右・坤維(西南)で共に軍旅が興る中、継遷は翻然として帰化を望み子を入覲させ職貢を修めようとしている、陛下がこれを容れ内属を許し徳信を示し恩沢を伸べることは綏懐(懐柔)を尽くしたと言えよう。しかし狼子野心は深く信頼すべきでない、屯戍を謹み城塁を固め芻糧を貯え、才勇の者を選んで辺任に付し緩急に備えるのが宜しく、そうすれば彼が何を為そうとも患いとはならない」と説いた。
  • また蜀の賊がまだ平定されていないことについて「神人共に憤っており、将帥に速やかな鎮圧を促すべき、老いた師で財を費やすのは避け、また事が長引けば変が生じかねない、況や邛蜀は物産が豊かで士卒の間に驕怠・遷延・眷恋があることも兼ねている、行き来を憚らず密かに更代させ、労逸を均等にし遷延を免じるべき」と説いた。
  • また河北の関防の慎重さについて「国家がまさに西南の事に取り組み密かに謀り事を興そうとするなら、中朝の勢力を分散させれば外寇の姦謀を助長することになる」と述べた。当時、沿辺の糧穀は河西を過ぎさせず、河西の青塩も境を越えて販売させず、犯した者は多寡を問わず斬に処す制であったが、顕は多量を犯した者は法通り、それ以外は別に科断してその罪を差等付けるよう請うた。しかしこの上表は返答されないまま知秦州に転じた。
  • もと温仲舒が知州の折、山林を開拓し蕃部にその地を献じさせるよう促し、後に朝廷はこれを一部返還したが採伐は依然として続いていた。転運使盧知翰は蕃部に茶綵を量給してその献上に酬いるべきと請い、詔で張従式を顕と共に赴かせ規度させた。顕は「先に朝命は趙保吉に貢を修めさせ辺城を安静にすることを務めとした、今、衆を動かし疆域を拡張すれば不便」と述べ、この議は結局取りやめとなった。
  • 咸平初、入朝して横海軍節度に改まり出て知鎮州。咸平2年(999年)、曹彬が卒すると再び樞密使を拝し郊祀で検校太師を加える。真宗が大名に行幸した際、内樞(樞密院内部)は顕と副使宋湜のみで、言事者の多くは「顕は専ら兵要を司るが謀略は長所でない」と述べていたところ、湜が卒し参知政事向敏中が権同知樞密院事となった。
  • 咸平3年(1000年)春、山南東道節度・同中書門下平章事に改まり定州路行営都部署・河北都転運使兼知定州となる。秋、吏民が駐泊都部署孔守正に赴き顕の治績を訴え留任を願い、守正がこれを上聞。翌年秋、鎮・定・高陽関三路都部署を加え便宜従事を許された。
  • 10月、契丹の侵入で前軍が威虜軍を通過した際、折しも長雨が続いており契丹の弓弦は皮製で湿って緩み使えず、顕はこれに乗じて大破し、名王・貴将15人と羽林印2鈕を捕獲、首2万級を斬った。顕は「先に近辺への布陣と北平への応援・控扼の道を詔で命じられていたが、間もなく敵騎は既に亭障を越えてしまい、前陣は捷克があったものの結局は詔命に違えることになった」と上章して請罪し、帝は手札を下してその憂悸を慰めた。
  • 翌年、致仕を求めたが許されず、河陽三城節度に改まる。将に鎮に赴こうとした際、契丹への親征が議されると、顕は「盛寒の折、敵は未だ塞を犯していない、鑾輿を軽々しく動かし直ちに窮辺に至れば、寇に遭わずして師を先に疲弊させることになる。況や今は継遷が未だ滅びず西鄙が不安定である、もし北辺の部落がこれと結援すれば中国の患いは計り知れない。議者はこの時に幽薊の回復を求めるが、これは得策ではない。凡そ大事を建議するには上下協力して必ず成功を挙げるべきだが、今は公卿士大夫から庶人に至るまで異論があり万全の挙とは言えない。将帥を選び士卒を訓練し城塁を堅くし甲兵を修めれば敵を待つに十分である。必ず燕薊の旧地を回復しようとするなら、文徳を修め勇鋭を養い時の利を伺い天罰を奉行してから行うべきだ」と説いた。
  • 景徳初、知天雄軍府に転じる。また「祖宗以来、近臣に軍旅を統領させることが多かった、今後は宣徽使は文武の群臣の中から辺事に通暁した者を選ぶべき、位が高ければ威名が著しく識見が遠ければ勲労も立つからだ。罪で黜けられた武臣も寛容とすべきで、一つの過ちで永久に廃してはならない、用いて恩を与えれば必ず死力を尽くす、『使功は使過に如かず』(功のある者を使うより過ちを犯した者に功で贖わせるのが良い)と言うのはこのためだ。臨戦の将の任命は専任を貴び、出師応敵は将校の約束を確実にし相互援助させれば軍威は倍増し人心も勇気を増すだろう」と説いた。
  • その後、行在への赴任を上表し許され、この年の秋、鎮に還される。契丹の侵入で帝が親征を議した際、顕は再び3つの策を陳べた。大将軍がまさに鎮定にあれば契丹は必ず南侵しないので、車駕は澶淵にとどまり鎮定に出兵させ河南軍と合わせて撃つべき、これが一策。もし契丹母子が虚勢を張って我が軍に対抗し密かに精鋭を南に遣わして駕前の諸軍を攻めるなら、鎮定の師を直ちに戎帳に突入させその営砦を攻めさせれば、沿河の遊兵は戦わずして自ら屈する、これが二策。さもなければ騎兵千・歩兵3千を濮州から渡河させ澶州を横掠し、続いて大軍で追撃・掩撃すれば不意を突けるだろう、これが三策。
  • まもなく契丹が盟を請い、趙徳明も使者を遣わして貢を修め臣を称した。朝廷は賞賜を加え青塩の通商を許したのは顕の請いによるものであった。景徳3年(1006年)冬、病に伏し中使が太医と共に診療した。翌年正月、京師への帰還が許された。折しも車駕が陵に詣でようとしていた際、顕は賓佐に「私の年齢と地位は共に極まった、今、天子の車が虎牢を通過するのに一度もお供の塵に拝することができないのは遺恨だ」と語り涙を流した。京師に至って数日で卒。享年76。車駕が鄭州に至った時にこれを聞き、宮苑使鄧永遷を遣わして急ぎ帰らせ喪を護らせた。中書令を贈られ諡は忠肅、2子が録された。
  • 顕は三班から数年を経ずして樞密の任に正式に就き、その抜擢の速さは当時比類がなかった。顕が吏軍司であった頃、張永徳は滑州の節制から殿前都点検となっていたが、顕が樞密から孟津を鎮め相帥を兼ねるに及び、永徳は太子太師から相帥となり同日に宣制されたが、永徳が大夫を兼ねながらかえって顕の下位に置かれ、時人はこれを訝った。
  • 顕は中執政にあって矯情(本心を偽ること)で胥吏を厚遇し齪齪(小心翼翼)として自らを固めるのみであった。藩鎮にあっては部曲(部下)を放縦にさせ下を煩わせることが多く、論者はこれを非難した。子の希逸、字は仲荘。蔭で供奉官に補し学を好み特に唐史に熟し書1万余巻を集めた。秩を換え朝奉大夫・太子中允を授かる。咸平初、殿中丞に改まり直史館・『冊府元亀』の編纂に参与し祠部員外郎を加え卒。希範は如京副使に至った。

史論

  • 論じて言う。柴禹錫以下、藩邸に給事したことをきっかけに攀附で通顕に至った者は概ね7人。楊守一の質直、趙鎔の勤謹は服勞が久しいほどますます職務を修めた、その眷遇を受けたのも当然である。張遜は理財に優れたが猜疑嫉妬を免れず、周瑩は軍旅に練達したがいささか酷濫に傷ついた。柴禹錫は勤敏と称されながら朋比を免れず、王顕は謹介を自ら守ったが学識に暗く齪齪の誹りを免れない。
  • 勤謹で信任を受け耆徳(老練な徳望)として樞密の首座を占め、始めのように善終を全うしたのはただ王継英だけではないか。『易経』に「君子には終わりに吉あり」と言うのはまさにこのことである。