王繼英
- 開封祥符の人。若い頃から趙普に従い筆札の用を務めた。普が河陽の官を罷され少保となった際、従者は皆去ったが継英はますます謹んで仕えた。普が再び入相した際、継英は中書五房院に籍を置いた。真宗が藩邸にあった頃、導吏に選ばれ内知客事を兼ねた。太宗は召見して「そなたが昔趙普に仕えたことは朕がよく知るところだ、今は親賢に奉仕する以上、いよいよ節を尽くすべきだ」と述べた。
- 儲位(皇太子)が建てられた際、左清道率府副率・兼左春坊謁者を授かった。謁者はもと宦職で、副率の品秩は高く、左右に趨走する者が就くべきものではなかったが、これを兼領させたのは執政の誤りであった。
- 真宗即位後、引進使に抜擢される。咸平初、恩州刺史を領し閤門使を兼掌、左神武大将軍・樞密都承旨に遷り客省使に改まる。契丹の侵入に際し、継英は密かに車駕の北巡を請い帝はこれに従い、即座に継英を駅馬で鎮・定・高陽関に赴かせ行宮の儲頓を検視させ将士を宣諭させた。まもなく澶州鈐轄を充てる。
- 大将傅潜が逗撓(逡巡)して罪を得た際、継英に軍中で召し還らせ属吏を処分するよう命じられ、まもなく三班を掌り宣徽北院使を拝す。周瑩と共に同知樞密院事、瑩が出鎮すると継英が樞務の首座となった。小心慎靖で勤敏をもって称され、帝はこれに頼った。
- 景徳初、樞密使を授かる。旧制では樞密院使の祖母・母は郡太夫人までしか封じられなかったが、特に国封を加える詔が出た。かつて軍校の補任を進言した際、帝に「疎外の人で急いで攀附しようとする者は、臣が蒙蔽して薦引しないと言っています」と述べたところ、帝は「この輩は縁故があっても事に因って功を立てさせてこそ抜擢を許すべきだ、過度に僥倖を求めさせてはならない、卿はこれ以上言うな」と述べた。
- 澶州行幸に従い、契丹との和議・諮訪・経略に継英が参与した。翌年の郊祀で特進・検校太傅を加える。大中祥符3年(1010年)、卒。享年61。帝は自ら哭に臨み白金5千両を賜り、太尉・侍中を贈られ諡は恭懿とし、その祖父の葬儀を執り行い、妻の賈氏は長楽郡太夫人を贈られ、子婿と門下の親吏数十人が録用された。
- 継英は幼くして孤児となり外家に養われた。貴くなった後、外祖父や諸舅で族が殯(未葬)の者がいれば、その子に葬儀を営むよう奏請させ、卒に際しても特に有司に手配させた。子の遵式・遵誨・遵度・遵範は皆顕宦に至った。