宋史卷二百六十八 列傳第二十七 周瑩

瀛州景城の人(?–1016年)。太宗の潜邸以来の側近で、地方の巡検・都監を歴任し宣徽北院使・南院使・知樞密院事にまで昇った。西夏との関係や河北の辺境統括にあたったが、軍事的な果断さに欠けると帝にしばしば咎められた。

年表(8件)
  • 景徳初母の喪に服すが起復し、王顕に代わり天雄軍都部署兼知軍府事となる
  • 雍熙2年985年杭・睦等五州の都巡検使兼杭州都監となる
  • 至道2年996年李継隆の西夏討伐に軍前で従い機事を授かる。帰還後、客省使・簽書樞密院諸房公事を拝す
  • 咸平2年999年大閲で随駕部署を命じられ、河朔征討に従う
  • 咸平3年1000年南院使・知樞密院事に遷る
  • 咸平5年1002年高陽関都部署の適任藩侯がなく、永清軍節度を拝しこの任を兼ねる
  • 大中祥符7年1014年入朝し再び澶州に遣わされる
  • 大中祥符9年1016年病により帰還を求め、卒。享年66

周瑩

  • 瀛州景城の人。右領軍衛上将軍周景の子。景は家が富み財があり交結を好み、唐・後漢・後周に仕え水利に通じた。汴口を浚渫し鄭州郭西の水を導いて中牟渠に入れ、滑州の河堤を修めるなど累進してこの官に至った。
  • 太宗が潜邸にあった頃、瑩は左右に給事することができた。即位後、殿直に補され武騎を領し泉州・福州で巡警を務め、卒わずか数百人で劇賊千余人を捕らえた。供奉官に遷る。天雄軍節度孫永祐・転運使楊緘がこれを称薦し、また綏州・銀州へ辺事を按じるよう遣わされ、帰還後の奏上が帝意に叶い鞍轡庫副使に抜擢された。
  • 雍熙2年(985年)、杭・睦・五州の都巡検使兼杭州都監となる。妖僧紹倫が反乱を起こした際、瑩がこれを捕らえたが、連座して誅殺された者が300余人に及び、人々はこれを酷濫(過酷すぎる)とみなした。代わって帰り崇儀使・滄州都監に改まる。召され西上閤門使を拝し鎮・定・高陽関都監を領し判四方館事を加え、郝守濬と共に宋州の決河を塞ぐ護衛を務めた。まもなく三路排陣鈐轄に改まり知天雄軍・真定二府を歴任、就いて引進使に遷る。
  • 至道2年(996年)、代還した際、李継隆が西夏を討伐する折に瑩は軍前に赴き機事を授けられた。帰還後、客省使・簽書樞密院諸房公事を拝し、まもなく提点宣徽諸房鼓司登聞院を兼ね、劉承珪と共に任じられた。真宗即位後、承珪は河北の告諭を分掌し、瑩は富州刺史を加領した。帝はその母が老病であることを聞き憐れみ、特に武功郡太夫人に封じた。秋、宣徽北院使を拝す。もと宣徽の位次は樞密副使の上にあったが、瑩は表して下に居ることを請い、これに従われた。
  • 咸平2年(999年)、大閲(大規模な閲兵)で随駕部署を命じられ、河朔征討に従い駕前馬歩都部署ともなった。咸平3年(1000年)、南院使・知樞密院事に遷る。蜀平定に伴い脅従(反乱に加担させられた者)数十百人を京へ送った際、西川転運使馬亮が入奏してその罪の赦免を求めたが、瑩は「悉く誅すべき」と主張し、瑩と亮の廷議となり、帝は亮の議を是として全て罪を許した。
  • 咸平5年(1002年)、高陽関都部署が欠員となり適任の藩侯がいなかったため、宰相は宣徽使を輟してこの任に当てるよう請うた。当時、王継英が北院を任じていたが、帝は瑩が軍事に練達であるとして永清軍節度を拝させこの任を兼ね、三路排陣使とした。
  • 瑩の隷人に錢仁度という者があり軍功があったが虎翼小校劉斌と競い合い、殿直閻渥に摘発された際、瑩の縁で不問とされ斌のみ他軍に転属された。契丹の侵入で歩兵を寧辺軍に赴かせ援軍とする詔が出た際、瑩が到着した時には敵兵は既に去っており、瑩は即日屯所に戻った。帝はこれを聞いて「瑩はなぜ持重せず少し留まって不測の事態に備えなかったのか、軽々に動くのは将帥の体ではない」と述べた。
  • 景徳初、母の喪に服すが起復し王顕に代わり天雄軍都部署兼知軍府事となる。かつて洺州の騎士1500人を大名に召したところ道中で寇と直に戦い死傷者が出た際、瑩はなお彼らが敵をなめてかかったとして誅殺しようとしたが、詔で金帛を賜り罪を問わないよう諭された。
  • 帝の北巡に際し駕前東西貝冀路都部署となる。翌年、知陝州に改まり、まもなく永興軍府に転じ、さらに邠州に移り環慶路都部署を兼ねる。夏州が内属した際、詔で戍兵を減らし営に還らせ饋餉の費を減じるよう手詔で瑩に諭したが、瑩は急遽留任を願い出て辺威を張ろうとした。帝は瑩を庸懦不智とみなし曹瑋に代えさせ、知澶州に転じた。
  • 大中祥符初、天平軍節度に改まる。翌年、鎮定都部署兼知定州となるが、転運使がその怠慢を上奏したため知澶州に転じる。境内に頻繁に寇盗が起こったため宰相は「瑩は将帥の任にありながら威望で鎮定できていない、他郡に移すべき」と請うたが、帝は「閑僻の地に置けば自らを甘やかすだけだ」と述べ、詔でこれを督責し捕獲を命じた。
  • 河防の修復に卒を発した際、軍中に供給された糗糧(乾飯)は多くが腐敗して食べられず、また役使が不均衡であったが、瑩はこれを恤せず、そのため逃亡者が多かった。大中祥符7年(1014年)、入朝し再び鎮に遣わされ、澶淵が契丹の要衝であるためその廩給を厚くするよう命じられ知澶州に復帰。大中祥符9年(1016年)、病により京師への帰還を求め、卒。享年66。侍中を贈られ諡は初め忠穆、後に元恵と改められた。2子は供奉官・普は内殿崇班に録され、2孫の永昌・永吉は殿直となった。
  • 瑩は樞密の近くにありながら特に謀略はなく、軍旅に臨み藩鎮を歴任しても功業は人並みを超えることはなかった。もと大礼で恩慶が及ぶ際、外藩には賜物の例がないが、東封の年、瑩が澶淵を鎮めていて車駕が経由したため特に襲衣・金帯・器帛の賜があった。汾陰の祭祀では瑩が知定州であったが、あらかじめ礼成の際の賜物は治所での支給を望むと上言し、人々はこれを笑った。普は後に崇儀副使、顕は内殿承制に至った。