趙鎔
- 字は化鈞。滄州楽陵の人。刀筆(文書事務)で太宗に藩邸で仕え、即位後東頭供奉官に補された。呉越への使者に因み国姓を賜り、銭俶が土地を献じた際には検校帑廩に遣わされ内酒坊副使に転じた。秦王廷美の陰謀を告発した功で六宅使に遷り羅州刺史を領し翰林司を掌り、東上閤門使に抜擢された。
- 郭贄が参知政事となった際、鎔は同府の旧縁で依頼したことがあったが贄はこれに従わなかった。鎔は堂吏の過失を摘発してこれを上聞し、贄は帝に会って鎔の私謁を訴え、帝は鎔を召して廷で弁論させたところ鎔は言葉に詰まり、梓遂州都巡検使として出された。左驍衛大将軍に改まり郡の領有はそのまま、代わって帰り知滄州兼兵馬部署。
- 郡にあって城塹を完備し戦具を厳にした。寇賊が数百騎で境上に至った際、備えがあることを聞いて引き返した。左神武大将軍に遷る。崔翰が知州となった際、鎔は本州鈐轄に改まり、また知廬州。対面の際に自ら留任を願い出たが許されなかった。1年後、召され樞密都承旨として三班を同掌、まもなく宣徽北院使を拝し同知樞密院事、柴禹錫と共に機務を掌った。
- かつて吏卒を変装させて京城に散らし監視させたところ、監視の卒が酔って書を売る韓玉と喧嘩し負けたため、玉を誣告して禹錫らを指斥する言があったと述べた。これがそのまま上聞され玉は処罰されたが、太宗はまもなくその冤罪を知った。以後、廉事(密偵)の報告を再び聞かなくなった。
- 禹錫が出鎮すると鎔は知院事を加える。真宗即位後、南院使・検校太傅に改まる。心の病により解任を求め、この秋、寿州観察使を授かる。咸平元年(998年)3月、卒。享年55。中正軍節度を贈られ、その3子が官を録された。
- 鎔は若い頃から文史に渉猟し書翰に美しく、晋邸に仕えて勤謹で寵愛された。もとの名は容であったが、太宗が「陶鎔(陶冶)は器を成すためだ」と述べて鎔と改名させた。鎔は仏教を好み古書画を多く蓄えた。3子は忠輔(西京左蔵庫副使)、忠愿(虞部員外郎)、忠厚(内殿崇班)。