楊守一
- 字は象先。先祖は河南洛陽の人で、唐末の乱を避けて宋州・鄭州の間に家を移した。守一はやや『周易』『左氏春秋』に通じ、太宗が晋邸にあった頃に仕えた。太宗即位後、右班殿直に補された。太平興国中、出て登州兵を護衛し、召還されて儀鸞司を監し、西頭供奉官に累遷した。
- その配下には貴族の子弟が多く豪縱で徼幸(不正な僥倖)を求める者が多かったため、初めて三班院が置かれ守一に専管させると、考核・授任に次第に条理が整った。1年余りで翰林学士に改まる。守一は初め守素という名であったが、この時に改名を詔された。
- 太平興国7年(982年)、趙鎔・柴禹錫・相里勲らと共に秦王廷美の陰謀を告発し、東上閤門使・兼樞密都承旨に抜擢される。太平興国8年(983年)、判四方館事に改まる。雍熙中、雲朔から帰附した安慶兵が潞州に屯した際、これを護送するよう詔された。雍熙3年(986年)、内客省使に転じ都承旨を兼ねる。端拱元年(988年)、宣徽北院使・簽署樞密院事を授かる。
- この秋に卒。享年64。太尉を贈られ、中使が葬事を護った。守一は性質直で勤謹、他に特筆すべき才術はなく、ただ王府に始まった経緯から久しく左右に仕え時機に恵まれたため、通顕の職を歴任した。飾終(葬送の儀)の礼はいずれも常数以上とされた。子の安期は国子博士を歴任したが事に連座し貶され卒。安期の子の夢得は進士に及第した。