宋史卷二百六十七 列傳第二十六 張洎
滁州全椒の人。南唐で李煜の側近として重用され清輝殿学士まで進んだが、宋軍による金陵陥落の際には殉節せず降伏、宋に帰順後は太祖・太宗に仕え翰林学士・参知政事に至った。弁舌と学識に優れたが陰険で人の短所を攻めることを好み、寇準との確執を経て晩年は失脚した。
年表(4件)
- 太平興国4年979年出て知相州となる
- 雍熙2年985年同知貢挙となる
- 至道2年996年靈州侵入をめぐる議論で呂端と対立し帝の不興を買う
- 至道2年996年政事を罷され、まもなく卒去。享年64
出自と南唐時代
- 張洎、滁州全椒の人。曾祖の旼は澄城尉、祖の蘊は泗上転運巡官、父の煦は滁州司法掾。洎は若くして俊才があり典籍に博通した。江南(南唐)で進士に挙げられ上元尉として釈褐。
- 李璟の長子弘冀が卒した際、有司は諡を武宣としようとしたが、洎は「世子の礼は問安視膳のみであり、武を称号とすべきでない」と論じ、まもなく諡は改められた。監察御史に抜擢され、洎は自らの論事が帝意に叶うと認識し弾劾を憚らなくなり、大臣の游簡言らはこれを嫉んだ。璟が豫章に遷都し煜を留守とした際、洎は煜の記室として推薦されたが従うことはできなかった。まもなく璟が卒し煜が嗣ぐと、工部員外郎に抜擢され試知制誥、1年で礼部員外郎・知制誥、中書舎人・清輝殿学士に遷り機密に参与し恩寵は第一であった。洎の旧字は師黯であったが偕仁に改めた。
- 清輝殿は後苑中にあり、煜は洎を寵愛し左右から離したがらず、内殿の職を授け中外の事務を一切諮った。兄弟の宴飲で妓楽を催すたびに洎だけが陪席を許され、宮城東北隅に大邸を建てさせ書1万余巻を賜った。煜がその邸を訪れ妻子を召見し賜与も厚かった。洎は建議を好み、上言がすぐに実行されなければ必ず病と称し、煜が手札で慰諭してから復帰した。
- 宋軍が城を囲んで1年を過ぎ危機が深まった際、洎は煜に降伏しないよう勧め、符命を引いて「天象に変化なく金湯の堅固さはたやすく取れない、北軍は朝夕自ら退くだろう、もし不虞のことがあれば臣が先に死ぬ」と述べた。しかし城が陥落すると、洎は妻子と荷物を携えて便門から入り宮中に留まり、光政使陳喬を欺いて共に閣に登り共に死のうとしたが、喬が自ら首を締めて絶命すると、洎は反って降りて煜に「臣と喬は同じく樞務を掌り国が亡べば共に死ぬべきですが、主上がなお在ることを思い、誰が王のためにこの事を白すことができましょうか。死なずして報いる所存です」と述べた。
帰順後・宋朝での活躍
- 帰朝後、太祖は洎を召して責め「お前が煜に降伏しないよう教えたため今日に至った」と述べ、帛書を出して示した。それは囲城の日、洎が起草した上江の救援を求める蝋丸書であった。洎は頓首して罪を請い「実に臣の所為です、犬が主人以外に吠えるのはこの一例、他にも多々あります、今死を賜るのは臣の分です」と述べ辞色を変えなかった。帝はこれを奇として死を貸し「卿には大いに胆力がある、罪を加えないのは今後我に仕える忠が昔の忠に劣らないためだ」と述べ、太子中允を拝した。
- 1年余りで判刑部。太宗即位後、その文雅を認め直舎人院を選び諸州の進士を考試させた。まもなく高麗への使者を務め復命後、戸部員外郎に改まる。太平興国4年(979年)、出て知相州、翌年夏に貝州に転じ、この冬また知相州。部内が治まらず転運使田錫がその状を訴えたため代還を命じられ、洎は面前で弁明を求めたが、帝はその儒生としての性質から吏事で責めず詔で問わないとし、本官のまま知訳経院とした。
- 兵部員外郎に遷り礼部・戸部の郎中を歴任。雍熙2年(985年)、同知貢挙。端拱初、契丹が辺境を侵した際、群臣に言事を詔すると、洎は兵を練り穀を貯め塞下に分屯し、来れば防禦し去れば追わないことを要略とすべきと上奏した。
- 銭俶が薨去した際、太常が諡を「忠懿」と定め、洎は当時考功の覆状を判じていた。尚書省で集議した際、虞部郎中張佖が「考功覆状の一句『亢龍無悔』は臣子が言うべきものではない、銭俶は島夷に生長し夙に荒服に属し尊位を略取したことはなく終わりまで藩臣であった、名は龍と称すべきでなく位は亢と為すべきでない、亢龍無悔の四字は改正すべき」と駁奏した。
- 事が中書に下り洎に詰問された際、洎は「秦国王の明徳茂勲は天壤に格り、崇高の富貴に処しながら纎介の譏嫌を絶っていた、太常礼院はその功行を稽えこの嘉諡を定めた、考功の詳覆に際しては至公に遵い、その議状は『これぞ寵を受けて驚くがごとく、亢に居て悔いなきものである』と述べたに過ぎない」と答え、『易経』乾卦九三の「君子乾乾、夕惕若厲、旡咎」の王弼注や易例、正義、『漢書』梁商伝賛、楊植許由碑、杜鴻漸讓元帥表、盧杞郭子儀碑、李翰書霍光伝、張説祁国公碑などを引用し、考功状には「受寵若驚、居亢無悔」とあるのみで「亢龍無悔」の語は元々なく、張佖が擅に改めて公奏を偽り天聴を惑わしたと反論し、元の状で審査するよう請うた。
- 詔で「張洎の援引した故実には皆根拠があるが、張佖の学識は浅く敷陳が実を失っている、寛容を示し黜降は免じるが1か月の俸を罰する」とされた。まもなく洎は太僕少卿に選ばれ京朝官考課を同知し右諫議大夫・判大理寺を拝し史館修撰・判集賢院事を充てた。
- 淳化中、帝は史館修撰楊徽之ら4人に入閤の旧図を修正するよう命じ、洎も詔を奉じたが、故事を討論して独りで奏を草して報告した。また洎は「旧史によれば中書門下・御史台を三署と言い侍従供奉の官を指す、今の起居では侍従官が先に殿庭に入り東西に立ち、正班が入るのを待って一斉に起居するため侍従官が東西に列拝し北面朝謁の儀を失している、旧儀に凖じ侍従官が先に入り起居を終えたら丹墀の下に分かれて侍立させ蛾眉班と称し、その後宰相が正班を率いて入り起居するのが礼に合う」と上言した。
- また「古の王者は庶務に躬ら勤め、朝に臨む頻度は政事の繁簡による、唐初は5日に1朝であったが景雲初に貞観の故事に復し、天宝の兵乱の後は四方に事多く肅宗以降は隻日に臨朝し双日は坐さなくなった。隻日に陰霪・盛暑・大寒・泥濘があれば百官の起居を放免し、双日に宰相が奏事すべき時は延英殿を特に開いて召対し、夷蛮の入貢や勲臣の帰朝には紫宸殿を特に開いて引見した。陛下は即位以来15年、一日も鶏鳴に起きて天下の政を聴かなかったことはない、剛健不息は天徳の常であるが、遊息もまた聖人の謨訓である、もし君父が上で焦労し臣子が下で沈黙し大体を引いて争わなければ忠良の心が至らないところがあろう」と説き、「陛下には前代の旧規に依り隻日に視朝し双日は坐さず、隻日で大寒・盛暑・陰霪・泥濘があれば百官の起居を放免し、双日は崇徳・崇政の両殿で宰臣・常参官以下を召対し非時の蛮夷入貢・勲臣帰朝も上閤で特に引見していただきたい」と請うたが、この上奏は返答されなかった。
- 帝が『儒行篇』を版に刻んで近臣・新第挙人に印して賜った際、洎は表を上げて謝し、帝はこれを見て嘉した。翌日、帝は宰相に「群臣の上章献文は朕が再三省覧しないことはないが、張洎の一表のような古今の引用は他になし得ない」と述べ、中書に召して朕の意を宣諭させた。数か月後、中書舎人に抜擢され翰林学士を充てる。帝は近臣に「学士の職は清要貴重で他官と比較にならない、朕は常に自らこれを務められなかったことを恨む」と述べた。
- 学士の赴任日に燕を設け教坊が雑戯を進める故事が久しく廃れていたが、これを全て復させ、樞密直学士呂端・劉昌言および知制誥柴成務らを陪席させ、当時これを栄とした。まもなく判吏部銓。選人を召見した際、帝は「張洎は文芸に富み今なお学に苦しんでいる、江東士人の冠だ」と近臣に述べた。
- 洎は錢若水と共に翰林にあり厚遇された。当時劉昌言が急遽枢要に抜擢され人望は軽く、董儼は財賦を掌り昌言を計略で陥れようとしていた。楊徽之・錢熙がかつて洎と若水が近く大用されるだろうと語っており、熙がこれを昌言に伝えると、昌言は「洎は必ず政柄に参ずるだろうが、若水は後進の年少者、そう早くこれに及ぼうか」と述べた。この時、翰林の小吏が側で用件を聞いており、昌言は洎に聞かれることを恐れ、小吏に熙の言を全て伝え洎に告げさせた。
- 洎はまさに辺幅(体裁)を修飾して恩寵を固めようとしており、徽之が熙を遣わして飛語で自分を陥れようとしたと疑い、上に訴えた。帝は怒り昌言を召して質し、徽之を鎮安軍行軍司馬とし、熙は職を罷され通判朗州とされた。
- 皇子益王元傑が呉王に改封され揚州・潤州の大都督府長史を行い淮南・鎮江両軍の節制を領した際、洎はその制を草するにあたり、前史を按じ皇子が王を郡で封ぜられる際の傅相・内史・中尉等の佐王の制、漢魏以降の封王が国に赴かない例、朝廷が卿大夫に郡を臨ませ内史と称し郡事を行わせた東晋の瑯邪王・会稽王・臨川王らの例、唐が揚・益・潞・幽・荊の5郡を大都督とし長史・司馬を上佐とした例(前代の内史の類)、大都督の号は親王以外に授けず親王が遥領する郡には大臣を臨郡させ長史副大使知節度事とする例を挙げ、段文昌の揚州出鎮の際の淮南節度副大使知節度事兼揚州大都督府長史、李載義の幽州鎮の際の盧龍軍節度副大使知節度事兼幽州大都督府長史の例を引き、「今、益王は揚潤2郡を以て社を建て呉国王となり大都督の任にあり既に節度事を正しく領している、どうして長史の号を加えるべきか、これは国王が自ら上佐となることになる。もし朝廷が長史を拝受させ加銜の中に副大使知節度使の目がなければ、他日別に守将を命じる際にどんな名目で授除するのか分からなくなる」と論じ、「臣は制の草創の夕に上陳しようとしたが、奏報の往復で明日の宣降に支障が出ることを慮った。この事は国体に関わり、況や呉王は未だ恩命を受けていない、改正できるうちに中書門下で商議していただきたい」と述べた。
- しかし宰相は制命が既に行われており追改しがたいとした。洎はさらに上表し「呂蒙正がかつて越王を福州長史に領させたことを論じたのに、今回呉王だけが大都督となり越王の上位に居るのは不便」と述べ、帝は他日の除授を待って改正するよう命じ、翌年、帝の郊祀の恩慶に際しこれが改められた。
- まもなく詔を奉じ李至・范杲・張佖と共に国史を修め、また判史館。洎は経史に広く渉猟し典故に通じ、帝が著述するたびや近臣に詩を賜るたびに、洎は必ず表を上げ経伝を引いてその意に順った。帝は詩を賜り褒美し「翰長老儒臣」の句があった。
- 蘇易簡と同じく翰林にあったが特にそりが合わなかった。易簡が参知政事になると洎はその過失を多く攻撃し、易簡が罷されると洎は給事中・参知政事とされ寇準と同列となった。もと準が吏部選事を知っていた頃、洎は考功を掌り吏部の官属であった。準は若く新進で気鋭、老儒を自らに従わせて自らを大とすることを望んでいたが、洎は朝夕曹に座り視事し冠帯して準の省門への出入りを待ち、揖して退くのみで一言も交わさなかった。準はますますこれを重んじ、招いて語らわせると洎は捷給で議論に長け準のために多くの計画を立て、準は心服して兄事し、極口で洎を帝に語った。
- 帝は洎を進用しようとしたが、江左時代に多く讒毀を行い善良を害したこと、李煜が潘佑を殺した際に洎が謀に関わったと疑われていることを知っていた。翰林待詔尹熙古・呉郢は共に江東の人で洎が善く遇していた。帝がある夜、熙古らを禁中に召して侍書させた折、佑が罪を得た経緯を問うと、熙古は「煜は佑の諌説が直截すぎたことを憤ったのであり、洎の謀ではない」と述べた。これにより洎への疑いは晴れ登用が進んだ。これは準の推挙によるものであった。
- 洎は政柄を共にしてから準に対しますます謹んで仕え、政事は準の判断に一任し参預せず、専ら時政記の修纂と甘言善柔(お世辞と迎合)に努めた。しかし後に奏事で意見が異なることがあり、準は再び洎を忌むようになった。
- 至道2年(996年)5月、四方館使曹璨が河西から馳せ入り継遷が万余の衆を率いて霊州を侵したと奏した際、帝は宰相呂端・知樞密院事趙鎔らにそれぞれの見解を上奏させた。呂端らは相率いて長春殿に赴き「臣らがそれぞれ意見を述べれば詢謀僉同(衆議一致)の議とはならない、共に1つの状にまとめて利害を陳べたい」と申し出た。洎は越次して「端らは輔弼の位にありながら陛下の下問に反って緘黙して答えない、これは謀を明らかにする体を大いに失している」と奏したが、端は「洎が言おうとするのは陛下の意を揣摩するだけで筋の通った直言ではない」と述べ、帝は黙した。
- 翌日、洎は上疏して賈捐之が珠崖を棄てた故事を引き靈武を棄てて関西の輸送を省くよう願い出た。帝は元々この意を持っていたが後に悔いており、洎の迎合を見て奏を喜ばず、疏を洎に返して「卿の陳べたことは一句も分からぬ」と述べた。洎は恐惶して退いた。帝は同知樞密院事向敏中らを召し「張洎の上言は果たして呂端の予想通りだった、朕は既にその疏を返した」と述べた。
- 洎は議事が意に沿わず恐懼して権位を固めようとした。帝は既に準の専横を嫌い恩寵が衰えていたため、洎は同時に罷免されることを恐れ、奏事の際に「寇準は退いた後、誹謗が多い」と大言したが、準は色を変えるのみで自ら弁明しなかった。帝はこれにより大いに怒り準を旬日で罷した。
- まもなく洎は病で在告(休暇)が100日に達し、力を尽くして請対したが拝礼の際に帝前に倒れ左右に助け起こされた。翌日、上章して解職を求めたが優詔で許されず、1か月余り後に刑部侍郎に改まり政事を罷された。詔を奉じ嗚咽し病はますます急を告げ10余日で卒。享年64。刑部尚書を贈られ、2人の子は共に京官とされた。
- 洎は風儀灑落で文采清麗、仏道の書に博覧し禅寂虚無の理にも通じ、終日清談し聴く者を魅了した。しかし性格はことに険詖(陰険)で人の短所を攻めることを好んだ。李煜が帰朝して貧窮していた際、洎はなお煜に金品を求め、煜は白金の面器を洎に与えたがなお満足しなかった。当時、潘慎修が煜の記室を掌っていたが、洎は慎修が煜を教唆したと疑い自らも日頃慎修と親しかったが以後は疎遠にした。
- 煜の子仲寓は蒲博(賭博)と飲宴を好み、洎はこれを切に諫めた。仲寓は謝ったが数か月後、なお蒲博を続けていると聞くと洎は仲寓との関係を絶った。仲寓が郢州で死し京師に葬られた際も洎は弔問に赴かなかった。張佖と議事で不協和になり讐隙となった。もと従父の礼で佖に仕えていたが、その後は拝礼しなくなった。
- 洎は特に宦官への配慮に長け、翰林にあった日、唐の故事を引き内供奉官藍敏政を学士使に、内侍裴愈を副に充てるよう奏したが、帝は奏を見て「これは唐室の弊政だ、朕がどうしてこの覆轍を踏めようか、卿の言は誤りだ」と述べ、洎は恥じて退いた。
- 性格は鄙吝(けち)で、親戚にも財を分け与えず、江表の故旧もその門を訪れることは稀であった。日頃徐鉉と親しかったが後に議事で不和になり絶交したものの、鉉の文章を手写し筆札を求めて箱に蔵すことは珍玩以上に大切にした。文集50巻が世に行われた。子の安期は国子博士に至り、方回は後に虞部員外郎、方回の子懐玉は王欽若の婿で進士及第を賜り大理寺丞・秘書校理。