宋史卷二百六十七 列傳第二十六 劉昌言
字は禹謨、泉州南安の人。陳洪進配下から北宋に仕え、趙普の知遇を得て急速に昇進し、太宗の寵遇を受けて同知枢密院事にまで進んだ。閩語の訛りや親を長く迎えなかったことなどを短所とされ、趙賛誅殺事件への連座を恐れて動揺したことから太宗の信頼を失い左遷された。
年表(5件)
- 太平興国2年977年陳洪進の帰順にともない鎮徐州の推官に改まる
- 太平興国5年980年進士に挙げられるが帰徳軍掌書記のみを授けられる
- 太平興国8年983年再び挙げられ及第し保信・武信の両鎮判官に遷る
- 至道2年996年知荊南府に転じる
- 咸平2年999年卒去。享年58、工部尚書を贈られる
劉昌言
- 字は禹謨。泉州南安の人。若くして篤学で文詞は靡麗、本道節度陳洪進に功曹参軍として辟召され牋奏を掌った。洪進が子の文顕を入貢させた際、昌言を同行させ、太祖は自ら労をねぎらった。
- 太平興国2年(977年)、洪進が帰順すると鎮徐州に改まり、また推官に辟召された。太平興国5年(980年)、進士に挙げられ格に入ったが、太宗は当初科第を惜しみ帰徳軍掌書記のみを授けた。太平興国8年(983年)、再び挙げられ及第、保信・武信の両鎮判官に遷る。宰相趙普が南陽に鎮した際、昌言の吏幹を重んじ、銭俶が鄧を帥した際に表で薦められ、泰寧軍節度判官に移り、入朝して左司諫・広南安撫使。
- 淳化初、趙普が西京留守を務めた際、表で通判とされ府政を委ねられた。普が病んだ際、昌言に後事を託し、普の死後、昌言は普の恩を感じてその家事を処理した。太宗はこれを「推挙した者への忠」と評し、起居郎を拝し金紫と銭50万を賜った。連続3日にわたり対を続け皆日が暮れるまで及んだ。昌言は捷給(弁が立ち)詼詭(機知に富み)人主の意を推し量ることに巧みで、常に帝意に叶った。太宗は宰相に「昌言の風貌は立派ではないが、外見で判断していれば子羽(孔子の弟子)のように見誤るところであった」と述べた。
- 工部郎中に遷り1か月余りで本官のまま枢密直学士を充て、銭若水と共に知審官院。28日で右諫議大夫・同知枢密院事に遷る。昌言の急な登用は時の人望に伏さず、閩語(方言)が分かりにくいことを短所とする者があったが、太宗は「私だけが理解できればよい」と述べた。また母や妻を郷里に委ねて10余年迎侍せず別に妾を娶っていたことも短所とされたが、太宗は寵愛のあまり京師に迎えるよう詔し、本州が装いの費用を給し県ごとに食を続けさせた。
- 当時、光禄丞何亮の家は果州、秘書丞陳靖の家は泉州にあり同様に親を迎えていなかったため、文武官の父母が剣南・峡路・漳泉・福建・嶺南にある場合は皆迎侍させるよう詔で戒諭し、違反者は御史台が糾挙して上聞するよう定められた。
- 昌言は自らの登用が異例であることから人に傾け奪われることを恐れていた。折しも凶人趙賛が誅殺された際、昌言は日頃賛と親しく以前に保任していたため心穏やかでなく、太宗が近侍で賛と交わりのあった者に言及した際、昌言は突然座を出て頓首し死罪を称したが、太宗は慰め勧めた。しかしこれ以後、太宗はその人柄を嫌うようになり、給事中として罷され出て知襄州。
- 水旱で民が税の納付を遅らせることについて「旧制では6月に開倉するが、臣は1か月前倒しでその地の県駅で輸納を許し民の便を図った」「盗を捕らえた場合、部送して京師へ送るべきだが、吏が柔懦で制御できず再び逃亡し軍籍に配される恐れがあったため便宜に処置した」と述べたが、これらは詔書に従わなかったため讒言を招く恐れがあると自ら弁明した。太宗は舊章に従わず民の恨みを買ったことを責める詔を下し、以後詔条に背けば譴責し容赦しないと述べた。
- 至道2年(996年)、知荊南府に転じる。真宗即位後、工部侍郎を拝す。咸平2年(999年)、卒。享年58。工部尚書を贈られる。子の有方は比部員外郎、有政は虞部員外郎。