宋史卷二百六十七 列傳第二十六 張宏
字は巨卿、青州益都の人。太平興国2年に進士に挙げられ、太宗の信任を得て枢密副使・吏部侍郎などを歴任した。河朔での用兵時に特に建言することがなく、趙昌言と枢密副使・御史中丞の職を入れ替えられた。循謹に位を守り赫々たる誉れを求めなかった。
年表(5件)
- 太平興国2年977年進士に挙げられ将作監丞・通判宣州となる
- 太平興国6年981年出て峡路転運副使となる
- 淳化2年991年吏部侍郎として罷され、まもなく権知開封府となる
- 至道2年996年右丞に転じる
- 咸平4年1001年卒去。享年63、右僕射を贈られる
張宏
- 張宏、字は巨卿。青州益都の人。高祖の茂昭は唐の益定節度使、曾祖の元は易州刺史、祖の持は蒲城令、父の峭は科挙に一度挑戦し不第の後は郷里に退いた。後唐天成中、賢帥に協律郎を補せられ平利令に至った。
- 宏は太平興国2年(977年)、進士に挙げられ将作監丞・通判宣州、太子中允・直史館に改まり著作郎に遷り緋魚を賜り『太平御覧』の編纂に参与、左拾遺を歴任。太平興国6年(981年)、出て峡路転運副使、就中左補闕を加え省副使として知遂州、勤幹(勤勉有能)で知られた。
- 入朝して度支員外郎、雍熙中、呂蒙正・李至・張斉賢・王沔がその文行を薦め主客郎中・史館修撰に改まり、数日で本官のまま枢密直学士を充て金紫を賜る。太宗が便殿で対し「成都は重地、卿のために鎮めよ」と述べ厚く賜物して遣わしたが、鄭州で急ぎ帰朝を促され右諫議大夫・枢密副使を拝す。
- 太宗が礼部の試験を親試した際、不合格の貢士に枢密院から牒を給するよう命じ、宏に「朕が即位して以来、親ら群材を選び、大なる者は棟梁に、小なる者は榱桷(垂木)とした。卿と呂蒙正は皆朕の選に中るが、大臣にはこれを非難する者もいる。朕の独断でなければどうしてこれに及べようか」と述べた。宏は頓首して謝した。
- 当時、河朔で用兵の際、宏は位にあって特に建言することがなかった。御史中丞趙昌言が辺事についてしばしば発言していたため、昌言を副枢密とし宏を中丞とする形で職を入れ替えた。端拱初、工部侍郎に改まり再び枢密副使。淳化2年(991年)、吏部侍郎として罷され、まもなく判吏部銓・権知開封府。
- 太宗が便殿で囚人を審理した際、府の獄が滞っていることに配慮し官属を弾劾するよう詔したため、宏らは頓首して罪を請い、帝はこれを許した。真宗が開封尹となると宏は罷され奉朝請。至道初、出て知潞州、至道2年(996年)、右丞に転じる。真宗即位後、工部尚書を加え、咸平初、帰朝して知審官院・通進銀台封駁司。
- 咸平2年(999年)、真宗は上封(上奏)する者が多く滞留を慮り、宏と王旦に知登聞鼓院を命じ、再び吏部選を掌らせた。咸平4年(1001年)、卒。享年63。廃朝し右僕射を贈られ、中使を遣わして葬事に臨ませ、子の可久を大理評事、可道を太祝、可度を奉礼郎に録用した。
- 宏は循謹に位を守り赫々たる誉れを求めず、通顕を歴任しても失敗することがなかった。可久は虞部員外郎に至り、可道は国子博士、可度は太子中舎。