宋史卷二百六十六 列傳第二十五 溫仲舒

溫仲舒(字は秉陽、河南の人)は太平興国二年進士で、知秦州として渭河南の羌戎諸部を渭北に移し辺境を安定させた功により参知政事に至った。呂蒙正の引き立てで及第しながら後に蒙正を攻撃し、共に進んだ寇凖と並んで「温寇」と称された。大中祥符三年、六十七歳で卒し左僕射・恭肅の諡を贈られた。

溫仲舒

  • 字は秉陽。河南の人。太平興国2年(977年)、進士に挙げられ大理評事・通判吉州。再び秘書丞に遷り知汾州、事に連座し除名となるが、まもなく起用され右賛善大夫・通判睦州。端拱初、右正言・直史館を拝し戸部の判憑由司を判じる。端拱3年(990年)、工部郎中・枢密直学士・知三班院を拝す。
  • 秋に彗星が現れた際、別殿に召し対したところ、仲舒は「国家が太原を平定して以来、燕代の境は城守が長引き殺傷掠奪が双方に見られ、大河以北は農桑が廃れ戸口が減耗している。凋弊の中で丁壮は辺境に尽力し老弱は賦役を供給し、廬は破れ堵は壊れて亡ぶか死ぬかしかないのに邪な者は上に媚びてなお『喜んで供出する』などと言う。加えて兵卒の踐更(交代勤務)で行く者は辛苦し留まる者は怨嗟する、恩を推し民庶を綏めることを願う」と述べ、太宗はこれを嘉納し河北を赦免した。
  • 淳化2年(991年)、右諫議大夫・枢密副使を拝し、同知枢密院事に改まる。淳化4年(993年)、罷され知秦州。当時の秦州は羌戎が雑居し、両馬家・朶蔵・梟波等の部が唐末以来渭河の南、大洛・小洛門砦一帯に住み良木の産地を占拠していた。毎年官が卒を調達し伐採させ京師に供給するには必ず費用をかけ羌戸に道を借りねばならず、それでも略奪を免れず殺掠に及んで平民の患いとなっていた。仲舒は着任すると兵を率いて諸砦を巡察し威信で酋長を諭し、諸部は地を献じて内属した。そして部落をことごとく渭北に移し堡砦を立てて制限した。民はその恵に感じ画像を描いて祠った。
  • ある者が「仲舒が事を生じている」と言った際、帝は近臣に「仲舒はかつて機密の職を総べ吾が左右にあった、綏懷(懐柔)を務めとすべき、古より伊洛の間にも羌渾雑居があった、況やこの羌部は内属して久しく渭南に土着している、これを一朝擅意に斥逐すれば騒動を招き吾が関右の民をも煩わせる」と述べ、知鳳翔薛惟吉と仲舒の任を交換させた。連続して知興元・江陵二府、給事中を加える。折しも内侍藍継宗が秦州から戻り「地を得たのは甚だ利益がある」と述べたため、仲舒を召し戸部侍郎を拝し、まもなく参知政事とした。2砦は後に内地となり毎年巨木の利益を得た。
  • 咸平初、礼部尚書を拝し政を罷め出て知河陽、1年余りで知開封府。咸平5年(1002年)、京府の事務多忙を理由に罷免を求め、本官のまま御史中丞を兼ね、まもなく刑部尚書に遷り知天雄軍、河南に転じる。景徳中、并州の守が欠員となった際、帝は「北門は重鎮、大臣による鎮撫が必要、張斉賢か温仲舒でなければならぬ」と述べ宰相に諭旨を命じたが、いずれも赴任を望まなかった。まもなく再び知審官院。
  • 大中祥符中、戸部尚書の秩に進み、大中祥符3年(1010年)、昭文館大学士を判じる命が下った際に卒。享年67。左僕射を贈られ諡は恭肅。
  • 仲舒は事務処理に敏で、若い頃は呂蒙正と親交深く、また同時に及第した。仲舒が黜廃されて数年、蒙正は中書にあって力を尽くし引き立てたが、任用された後は反って蒙正を攻撃し、士論はこれを軽んじた。正言から枢密副使に至るまで、寇準と共に進み、時人はこれを「温寇」と呼んだ。子の嗣宗・嗣良・嗣先・嗣立は、仲舒の死後、帝がその孤弱を憐れみ皆官禄を賜った。

王化基――出自と経歴

  • 字は永図。鎮定の人。太平興国2年(977年)、進士に挙げられ大理評事・通判常州。太子右賛善大夫に遷り知嵐州。当時、趙普が宰相で頻繁な人事異動は治に益がないと建議したため淮南節度判官に改まる。入朝して著作郎、右拾遺に遷り疏を抗して自薦した。太宗はその奏を見て「化基は自ら人主に結びつく慷慨の士」と評した。
  • 召試を経て知制誥、右諫議大夫として権御史中丞。ある日、便殿の侍で辺事を問われ「天下を治めるのは木を植えるようなもの、根本が固まっていないことが憂いであり、固まれば枝葉は憂うに足りない、朝廷が治まれば辺鄙もどうして安んじないことがあろうか」と答えた。またかつて士を薦めるよう命じられた際、一疏で数十人を推薦し、王嗣宗・薛映・耿望らはその中にいた。
  • 化基はかつて後漢の范滂の人柄を慕い、時事に対する五つの澄清策を献じた。

王化基――澄清の五策

  • 一つは「尚書省を復す」。国家の制度は動けば必ず天に法るべきで、尚書省は上に玄象に応じ対して紫垣に臨むゆえ六卿は喉舌の官に、郎吏は星辰の位に擬えられる。これは乾文が明らかに示すところである。今、省署の名実は釣り合っておらず、三司使の官名は近代の権制にすぎず、判官・推官・勾院・開拆・磨勘・憑由・理欠・孔目・勾押・前後行は皆州郡吏局の名である。三司を廃して尚書省に六尚書を設けて分掌させ、判官・推官を廃して郎官を置き二十四司と左右司の公事を分掌させ一人が一司を掌るようにし、孔目・勾押・前後行を廃して都事・主事・令史とし、勾院・開拆・磨勘・憑由・理欠等の司を廃して比部と左右司に帰属させれば、事はより精詳になり州郡吏局の名も一掃されると説いた。六卿の欠員は名品の近い有才望の者を権に任じ、郎官の欠員は両省三院から名幹清望の者を資に従い任じ、二十四司の繁簡に応じて省府の類ごとに均等に配分すべきとした。
  • 二つは「公挙を慎む」。朝廷は毎年類をもって人を求める詔を下すが、挙官の実績を得るのみで挙主の選び方を見ていない。今後は声望ある朝官が推薦者を挙げ、その官員に籍と挙主の姓名を付し、挙げられた者が実際に廉能なら挙主を特に旌表し、貪冒敗事なら挙主を連座させるべきとした。帝が即位して10年、7度の選挙で人材を多く得たが下僚遠官には沈滞がある、採訪司や州郡長吏に廉察させ籍に記録して用に備えるべきと説いた。
  • 三つは「貪吏を懲らす」。貪吏の民への損害は大きく、法を曲げ刑を煩わせ私に徇い虐を肆にすることは、民が木の虫に食われるより甚だしい。人材を得ずして法で縛らなければ、伯夷・叔斉・顔淵・閔子騫のような賢者でも自ら証明できない。人の性は中庸のものが多く水が器の形に従うようなもの、用いる者の姿勢次第である。諸路の転運使副に採訪の名を兼ねさせ州府軍監の長吏の得失を覚察させ、部内が澄清すれば破格の登用をして侍従に置くべきとした。
  • 四つは「冗官を省く」。古人が官を建てたのは必ずしも充足を求めず、人を得ることのみを重んじた。国家の疆域は前世を超えるが庶官の分設は常数を倍し、天下の利を尽くそうとして民物はかえって凋弊している。20年前、江淮諸郡で揚楚が最も要衝であったが知州1人が事を全て統括し、通判・推官・州官が榷務・倉庫を分担しても事が滞らなかった。その後10年で臣が揚州に任じた際は朝廷が監臨使臣等の職を添え本州官数を超えるまでになった。諸州にはこの類の冗員が多い。朝官・諸色使臣・県令・簿尉等の費用を計算すれば莫大な負担であり、貪吏が混じればさらに民への搾取が増す。各路転運使副と知州が協議して裁減し、県令・簿尉等の兼務可能な官職は兼ねさせるべきとした。
  • 五つは「遠官を選ぶ」。罪を負った人は多く不良で貪残凶暴、遠方の牧民官に任じれば悪を改めず遠さを恃んで小民に害を及ぼしても訴える術がない。今後、西川・広南の長吏に罪人を任じなければ遠人は恩恵を受けるだろうとした。
  • 上奏に対し太宗は嘉納した。もと柴禹錫が枢密にあった際、その奴が人から金を受け取ったが禹錫自身は知らなかった。参知政事陳恕はこれに乗じて禹錫を陥れようとし、太宗は怒って囚人を引き訊問させたが、化基はその誣告を弁明し、太宗は感悟して化基を長者とした。
  • 淳化中、中丞を拝し、まもなく京朝官考課を知り工部侍郎に遷る。至道3年(997年)、参知政事に超拝。咸平4年(1001年)、工部尚書として罷され出て知揚州、河南府に移り知り、礼部尚書に進む。大中祥符3年(1010年)、卒。享年67。右僕射を贈られ諡は恵献。
  • 化基は寛厚で度量があり、喜怒を表に出さなかった。僚佐に無礼な者があっても寛容に接した。中書にあっても蔭補で諸子に官を与えなかったが、教育に長け子の挙正・挙直・挙善・挙元は皆立身した。

王挙正

  • 字は伯仲。幼くして学を嗜み厚重寡言、化基は自らに似た性質と見て他の子より特に愛した。蔭で秘書省校書郎に補し、進士に及第、知伊闕・任丘県、館閣校勘・集賢校理、『真宗実録』院検討・国史編修官を歴任、尚書度支員外郎に3遷し直集賢院で『三朝宝訓』を修め同修起居注、知制誥に抜擢された。
  • 妻の父陳堯佐が宰相となったため龍図閣待制に改まり、堯佐が罷めると兵部郎中として復び知制誥、翰林学士を経て右諫議大夫・参知政事を拝す。その前日、報を馳せてきた吏に対し挙正はちょうど斎舎で燕居していたが「どうして禁中の言が漏れてくるのか」と静かに述べ、入朝して謝すると仁宗は「そなたは進取に恬淡で朝廷に働きかけたことがない、私事のためではなく破格に用いる」と述べた。
  • 陝西で用兵の時期、呂夷簡が宰相として枢密院を判じていたが、挙正は「判の名は重い、避けるべきである」と述べ、兼枢密使に改めさせた。給事中に遷る。御史台が李徽之を御史に挙げようとしたが徽之は挙正の友の婿であったため却下され、徽之は「挙正の妻は悍で制御できない、それで国政を謀れるのか」と訴えた。欧陽脩らも挙正が懦默で職務に堪えないと論じ、挙正は自ら辞任を求め、資政殿学士・尚書礼部侍郎として知許州となった。
  • 光化軍の叛卒が近隣を寇し、州兵にもこれに呼応しようとする謀があったが、挙正は密かに首謀者を捕らえ斬った。知応天府に転じ、累って左丞に遷る。皇祐初、御史中丞を拝し、張堯佐が庸人ながら妃の一族というだけで一日にして四使を兼ねていることを奏上し、賢士大夫を勧める道がないと訴えたが取り上げられなかった。挙正は留班して廷諍し、宣徽・景霊の二使を奪わせた。
  • また「先朝は人を用いる際、辺境を守って年数を経た者でも遙郡刺史止まりであった。今、用いる者が必ずしも人材とは限らないのに期を決めて昇進を待たせれば、後に功を立てた者は何を励みとするのか。また転運使は官吏の能否・民の休戚を察する要職なのに、任命が下ってすぐに何度も交代させられ、1年経たずに再び代わることが多い。恩沢が及ばず民の疾苦が癒えないのはこのためだ」と論じた。
  • 御史唐介が言事に連座し春州に貶されると、挙正は力を尽くして弁護し英州への移転を得た。半年後、堯佐が再び宣徽使となり家居すること7か月にして疏を上げたことについて、また狄青が枢密使となったことについても「青は兵卒出身で執政に適さない」と力争したが取り上げられず、言職の解任を請うた。帝はその風憲(御史台官の規範)に適う姿勢を称え、就第を賜り白金300両を賜与、観文殿学士・礼部尚書として知河南府、翰林侍読学士を兼ねる。
  • 進読するたびに前代の治乱の際に必ず再三諷諭した。太子少傅として致仕し卒、太子太保を贈られ諡は安簡、黄金100両を賜った。文章は雅厚でその人柄のようであり、『平山集』、中書制集、内制集など計50巻がある。

王舉元

  • 字は懿臣。上文(挙正)の縁で文章により進士出身を賜り、知潮州。江水が堤を破壊し盗賊がこれに乗じて出没した際、舉元は夜に里の豪族を召して計を練り、盗賊を捕らえた後、堤を修築した。河陰発運判官のとき、ある者が大河の決壊が京師を脅かすと言い立てたが、舉元がちょうど入対しており地形をもってその虚妄を証明し、後に果たしてその通りとなった。
  • 郡牧・戸部判官・京東転運使を歴任。沙門島には流人が多く、守吏が財貨を貪って密かに殺す者があったため、舉元は監を立てて賞罰を較べるよう請い、以後救われる者が多くなった。淮南・河東に転じ、夏人が屈野地を争った際、舉元は数騎で河を渡り幕を張って議論し、赤心を示すと夏人は皆服した。
  • 治平中、成都に転じる。邛井の塩は年収250万であったが丹稜・卓箇(地名)に侵食され売れ行きが悪化していたため、令を下してこれを止めさせ、塩の売上は旧に復した。京での修造を提挙する任に召され、英宗は「官の廬舎は水害で存するものがわずかであったが、卿は公事に専心し労を厭わなかった」と労った。
  • まもなく塩鉄副使に進み、天章閣待制・知滄州を拝し、河北都転運使に改まり知永興軍。慶州の夏人が境上に屯し我が方を窺う気配があった際、舉元は2人の裨将に千騎を率いさせ要害を扼させ、長安から従事が来て涇原と兵を合わせるよう告げたが軽挙を戒めた。大将竇舜卿は鋭意出撃を請うたが許されず、舉元は「3日を越えず虜は去る」と述べ、期限通り果たして去った。
  • 神宗が細札で攻守の策を諮った際、舉元は官を省き戍を減らし守備を増強し兵を出さず亭障を営まないよう請うたが、輿論に合わず疾を理由に辞任を求め陳州に転じたが、赴任前に卒。官は給事中に至った。享年62。子は詔。

王詔

  • 字は景献。蔭で官を得て広信軍を通判し知博州。魏の風俗は椎剽(暴力的な略奪)を尚び姦盗が互いに囊橐(隠匿)していたため、詔は反告殺すことを開いて并せて贖罪法によりその党を携え出させるよう請うた。
  • 元祐初、朝廷で回河(黄河の流路変更)の議が起こり未決のうちに開河の役が急に興った。詔は「河朔の秋の潦水が氾濫し民が流離しており、頼みは廩を発いて振給し生を蘇らせることであり、この時に力役で傷めるべきでない、安んずべきで力役を課すべきではない」と述べ、これに従われた。
  • 開封府推官に抜擢される。富民が貸した後、僧牒(度牒)を絶ち緡銭30万に換算し、期限を過ぎると倍額を責め身が死ねば財産を没収し妻子まで拘束するという慣行があったが、詔はこれを免ずるよう請うた。出て知滑州。州の属県に退灘(河川敷)百余頃があり、毎年民に草を刈らせ河堤に供していたが民はこの労役を苦にしていたため、詔は人を募って佃作させその余りを収めた。
  • 度支郎中に転じ、契丹への使者を務めた際、西夏討伐の最中で、迎える耶律誠が「河西(西夏)は無礼だが大国はこれを容れるのか」と試すように問うた。詔は「夏人が辺を侮ったのでその罪を正したまで、両朝の和好とは関係ない」と答えた。入朝しての賀では跪いて酒を飲む慣例があり誤って拝する者がいたが、これを強要されそうになった詔は「南北百年の守るべき礼を紛更してよいものか」と述べ、結局跪いて飲んだ。
  • 崇寧中、大理少卿から卿に、司農・御史に転じる。詔がかつて滁州にあった日、蘇軾に醉翁亭碑の書を請うたことを論じられ罷され崇福宮を主る。まもなく知汝州。鋳銭の任で卒した大校が上官を罵ったため詔は斬って見せしめとし、上章して待罪したが直秘閣を除された。言者が再び滁州の事を抉ったため罷され、起用されて知深州・兖州、同州に転じ、入朝の途中で留められ左司郎中、衛尉・太府卿・刑部侍郎に遷り勅令を詳定した。もと緋紫を借りた者は魚を佩びなかったが、詔は「章服は上下を弁じるためのもの、今は胥吏と変わらない」と言い、皆佩魚とさせた。
  • 工・兵・戸の三部侍郎を歴任し開封尹に転じる。時に子の璹が京西に使いし洛を摂尹しており、父子が両京に相対する様は人々の栄誉とされた。刑部尚書に進み延康殿学士・提挙上清宝籙宮を拝し、再び工部尚書。徽宗は老いを憐れみ拝礼を免じるよう命じたが、詔は恐懼して以後は朔望のみ朝した。まもなく銀青光禄大夫として致仕、卒。享年79。

史論

  • 論じて言う。昔から大政に参じ機務を賛けるのは、明敏特達の士でなければその任に堪えない。さらに文雅で飾り治具(統治の実務能力)で済すことができれば善を尽くす。銭若水は機鑑(洞察力)が明敏で儒臣でありながら兵を知り、李至は剛厳簡重で好古博雅、彼らの柄用は当然のことである。王沔は臨事精密で私謁を遠ざけたが、考課の議はいささか苛刻に傷ついた。辛仲甫は吏事をもって時に用いられたが、苟容(迎合)の誹りを免れなかった。瑕瑜(善悪)は互いに覆い隠せないものである。
  • 溫仲舒は蒙正に挙げられながら反ってその短を攻撃し、蘇易簡は何光逢を周恤できず死地に置いた。これらは郭贄が曹彬の誣告を弁じ、化基が柴禹錫の冤を伸べたのと同日に語れないことは明らかである。純厚な長者の称がひとり二人(郭贄・王化基)に帰する所以であろう。挙正は台佐を継いで踏み風憲の体を得、挙元は辺郡の職にあって持重の称があった。まして詔の父子も両京の尹を並び務め、その美を成し遂げた。王氏の子孫には何と賢者が多いことか。