宋史卷二百六十六 列傳第二十五 王沔

王沔(字は楚望、斉州の人)は太平興国初の進士で、枢密副使・参知政事として趙普・呂蒙正政権下の実務を担ったが、張斉賢・陳恕らと不和を重ね淳化二年に罷免された。京朝官考課を任され復権を図る最中、淳化三年に四十三歳で急死し工部尚書を贈られた。聡察敏弁だが苛刻な性格で人望を欠いたと評される。

王沔

  • 字は楚望。斉州の人。太平興国初、進士に挙げられ大理評事として釈褐。太平興国4年(979年)、太宗が太原に親征した際、行在で見え著作郎・直史館を授かり右拾遺に遷り、出て京西転運副使。翌年、右補闕を加え知懷州。太平興国8年(983年)春、宋白・賈黄中らと同知貢挙、膳部郎中・枢密直学士に抜擢、右諫議大夫・同簽書枢密院事に遷り崇徳坊に邸宅を賜る。
  • 雍熙元年(984年)、左諫議大夫・枢密副使を加える。端拱初、戸部侍郎・参知政事に改まる。淳化初、宰相趙普が西洛に出て守り、呂蒙正は寛簡を自任し政事の多くが沔の裁定に委ねられた。沔は張斉賢と共に枢務を掌ったがあまりそりが合わず、斉賢が出て知代州となると沔は副使のまま政事に参預した。陳恕は苛察を好みこれも沔と不和になった。
  • 淳化2年(991年)、斉賢・恕が参知政事となると沔は不安になり、僚属が中書の旧事を斉賢らに告げるのを恐れた。折しも左司諫王禹偁が「今後宰相・枢密使は本庁で客に会うことを許さず都堂で延接すべき」と上言し、沔は喜んでこれを奏行させたが、直史館謝泌が「これは大臣を私事で疑うことになる」と疏駁し、太宗は前の詔を撤回した。沔と恕はこれにより本官守に罷され、翌日蒙正も罷された。
  • 沔は帝に見え涙を流し左右から離れることを望まなかったが、まもなく鬚鬢は皆白くなった。省吏の事が発覚し連座して中書を毀す者が上奏した際、帝は毀す者に「呂蒙正には大臣の風格がある、王沔は甚だ明敏だ」と述べ、毀す者は恥じて口を閉ざした。
  • 淳化3年(992年)、帝が官吏の黜陟を欲し沔・謝泌・王仲華に京朝官考課を同知させた。沔は京朝官の失点について刑部に条報させ贓罪・公私罪を三等に分けるよう上言したが、法は苛察となり、これによって再用を求めようとしたと見られた。命を受けてわずか10日で職務についたところで急病により卒。享年43。工部尚書を贈られた。
  • 沔は聡察敏弁で時に適した用が持ち味であった。帝前で事を委曲に述べ、進士の辞賦の試験を読み上げる際は音吐が明暢で、読んだ者の多くが高第に入った。性格は苛刻で誠信に乏しく、機務を掌った日は謁見する者に必ず甘言で応じ皆喜んで期待したが、後の進退が公正でないため人々に怨まれた。
  • 沔の弟の淮は太平興国5年(980年)の進士で殿中丞に任じ、香薬榷易院を掌った際に贓罪により棄市に当たるところ、沔の縁で杖100に減じられ定遠主簿に降格された。沔はこれによりしばしば寇準に詆られた。