宋史卷二百六十六 列傳第二十五 辛仲甫
辛仲甫(字は之翰、汾州孝義の人)は郭崇の掌書記から身を起こし文武兼資と評された官で、契丹への使者では遼主に屈せず、知成都府では蜀の民政を安んじた。淳化二年参知政事に至り太子少傅を経て致仕、咸平三年、七十四歳で卒し太子太保を贈られた。
辛仲甫
- 字は之翰。汾州孝義の人。曾祖の実は石州推官、祖の廸は寿陽令、父の藩は河東節度判官。仲甫は若くして学を好み、成長すると吏事に能く、姿は堂々として器局は沈厚であった。
- 後周広順中、郭崇が親軍を掌り武定の節制を領した際、仲甫を掌書記とし、顕徳初に澶淵に出鎮しても旧職を署させた。崇の親吏が廂虞侯を務めていたが、劫殺された民の訴えで賊魁を密かに知っていたのがその吏自身であったにも関わらず官はこれを咎めなかった。仲甫は自ら捕縛と鞫問を請うたが、吏は故意に獄を遅らせた。仲甫は「民が寇害に遭いながらこれを自誣服させるのは政道への蠧毒だ、どうして僚佐に頼ろうか」と述べ、吏を替えて冤憤を晴らすよう請うた。崇が悟りこれを移して鞫問させると実状が判明した。
- 崇が真定に移鎮すると深趙鎮観察判官に改まる。太祖が受命し崇を監軍とした際、陳思誨が密かに崇に姦状があると奏し、帝は怒り疑い中使を遣わして検証させた。使者到着前に崇が憂懣して賓佐に「もし人主が実情を察さなければどうしたらよいか」と嘆くと皆愕然としたが、仲甫は「皇帝が天命を受け、公は真っ先に節を尽くし軍民の処置も常規に従っている、何を弁明することがあろうか。ただ使者を遠く迎え僚属を率いて郊迎の礼を尽くし、彼が視察するのに任せれば自ら明らかになろう」と述べた。崇はこれに従い、使者は崇に他意がないことを確認し帰り報告し、帝は大いに喜び陳思誨に罪を帰した。
- 仲甫はまた崇に随い平盧軍節度判官となり、崇の死後は鄆斉観察判官に改まり、しばしば冤枉を晴らした。乾徳5年(967年)、入朝し右補闕を拝し出て知光州。州には城と直交する横河があり、霖潦(長雨)で急に水位が上がり廬舎を破壊した際、仲甫は数百艘の船を集め軍資・民儲をこれで救った。
- 乾徳6年(968年)、知彭州に転じる。州卒が営兵や諸屯戍を誘い長春節の宴集の日に反乱を企てたが、春の初めに仲甫が城を巡視した際、壕の草が深く伏兵を隠せると見て焼き払わせた。凶党は謀が漏れたと疑い自首する者があり、100余人を捕らえ全て斬った。もと州には植樹が少なく夏に休める場所がなかったため、仲甫は民に柳を植えさせて道を陰わせ、郡人はこれに感謝し「補闕柳」と名付けた。
- 太祖が群臣に文武兼資の者を問うと、趙普が仲甫を挙げた。益州兵馬都監に転じ、帰還後三司戸部判官に選ばれる。太平興国初、起居舎人に遷り契丹への使者を務めた。遼主が「党進とはどんな人物か、進のような者はどれほどいるか」と問うと、仲甫は「国家には名将が輩出しているが、党進のような者は鷹犬の材にすぎず、取るに足りません」と答えた。遼主が留めようとすると、仲甫は「信によって命を成す、義において留まることはできません、死あるのみです」と述べ、遼主は結局屈服させられなかった。
- 帰還後、刑部郎中・知成都府。歳輸の銅銭免除を上奏し、榷酤(酒の専売)を廃止、政は寛簡を旨とし蜀人はこれに安んじた。太平興国8年(983年)、右諫議大夫を加える。彭州で盗賊が結党し害をなしていたが捕らえられず、仲甫は自ら縛って吏に出頭するよう誘い100余人が応じ、残りは離散した。
- 太平興国9年(984年)、入朝し知開封府、御史中丞を拝す。雍熙2年(985年)、給事中・参知政事。端拱中、戸部侍郎に進む。この頃、呂蒙正は長厚な人柄で相位にあり、王沔が実務を担い、仲甫はその間にあってあまり目立たなかった。淳化2年(991年)、足の病により罷され工部尚書として出て知陳州、代還した際、蜀に賊が起こり仲甫が日頃恩信を得ていたため輿に乗せてでも招撫に赴かせようとしたが病のため実現せず、まもなく太子少保として致仕。
- 真宗即位後、太子少傅を加える。咸平3年(1000年)、卒。享年74。太子太保を贈られ、子の若冲・若虚・若蒙・若済・若渝は皆その官を能くし、孫の有孚・有隣は共に進士に及第した。