宋史卷二百六十四 列傳第二十三 宋琪

宋琪(字は俶寳、?–996年)、幽州薊の人。契丹の科挙に進士及第した後に宋に仕え、太宗の信任を得て太平興国九年に宰相となった。契丹・党項に関する詳細な軍事論策を多く上奏したことで知られる。

年表(10件)

出自と生涯

  • 幽州薊の人。若くして学を好み、晉祖が燕地を契丹に割譲した際、契丹の貢挙に進士及第(天福六年・941年CE)、寿安王の侍読を務めた。幽帥趙延寿の従事として汴京に赴き、延寿の子贊の河中節度、晉昌軍を歴任、記室を務めた。
  • 周廣順中贊が罷鎮し観城令に改まった際も従い、世宗の淮南征討では贊が排陣使として従軍、琪も従い金陵の帰欵にも同行。贊の廬州鎮で観察判官、冤獄を晴らし三人を死罪から救った功で朝散大夫を加えられる。贊が宋に仕え寿陽・延安の鎮を歴任する間も従事を務めた。
  • 乾徳四年(966年CE)左補闕開封府推官。太宗が府尹の頃厚遇されたが、宰相趙普や樞密使李崇矩と親しかったことで太祖に疎まれ、龍州・閬州の知事に出された。開寶九年(976年CE)護国軍節度判官。太宗即位で召還されるが、程羽・賈琰らが府邸から抜擢される中、琪は長く昇進を抑えられた。
  • 太平興国三年(978年CE)太子洗馬に叙され召見で詰責されるも謝罪し悔い改める姿勢を示し太常丞、太通監知事。五年(980年CE)召還されるが盧多遜に阻まれ都官郎中に。広州知事の予定を藩邸旧僚として留められ判三司勾院。七年(982年CE)三司使王仁贍との廷弁で忤旨し兵部員外郎に降格されるが開封府通判となる(京府に通判が置かれたのはこれが最初)。
  • 八年(983年CE)右諫議大夫同判三司、左諫議大夫参知政事。工部尚書李昉が参政に先に着任することとなり刑部尚書に。九年(984年CE)趙普が南陽に出鎮し、琪は李昉と共に平章事に拝された(員外郎から尚書までわずか一年で四遷し宰相に至る異例の昇進)。
  • 太宗が「賞罰が公正であれば治まり、喜怒の道具に使えば乱れる」と説くと、琪らはこれに応答した逸話や、水磨の水質について地脈と人の善悪の関係を語った問答が伝わる。門下侍郎昭文館大学士。太宗が「帝王は威厳を保ち諫言を拒む例が多いが、朕は卿らと自由に議論したい」と述べると、琪は謝意を示した。
  • 宮城拡張の際、宣徽使柴禹錫が私邸を都市計画区域内に持っていたため官邸交換を望んだ事件で、太宗の不興を知りながら禹錫と結んで盧多遜の旧邸を求める上言をしたことで太宗に軽んじられた。簡州軍事推官王澣の官職を巡り太宗の意向に固執し受け入れなかったことも太宗の不興を買った。
  • 広南転運王延範が高氏の親族であることを知り広州知事徐休復が不軌を密奏した事件で、太宗が延範の人物を琪と禹錫に問うた際、琪は延範を「強明忠幹」と評し禹錫もこれに同調したが、後にその判断が問題視され、日頃の詼諧を好む姿勢が大臣らしくないとして本官に格下げ、罷相前に異鳥が待漏の場に居座り追っても去らなかった不吉な前兆があったという。
  • 端拱初(988年CE)吏部尚書に進み、二年(989年CE)幽薊討伐に際し詳細な戦略疏を上奏(地形・戦術・契丹の弱点・和戦両様の策など極めて詳細な軍事論)。
  • 続けて「平燕十策」(契丹種族・敵情偵察・敵の布陣・辺備・命将・排陣・和藩・饋運・幽州攻略・契丹殲滅の十項目)を上奏し、契丹の系譜(安巴堅・東丹・徳光・永康・舒嚕明記)や軍制、党項・吐蕃の風俗と防衛策なども詳述、燕地出身者としての知見を尽くした。
  • 淳化二年(991年CE)百官転対で明堂辟雍の議を建言。五年(994年CE)李継遷の霊武侵攻、李順の西川反乱を受け、党項・吐蕃対策の上書(生戸・熟戸の区別、進軍路の詳細な地理、夏州李彛超の故事など)を献じた。至道元年(995年CE)春の含光殿大宴で太宗に年齢を問われ「七十九」と答え、二年(996年CE)右僕射、月俸を厚くし五日一朝の恩典を受ける。
  • 同年九月病を得て、子貽序に「多幸老民叙」を口述筆記させ卒した。贈司空、諡は恵安。貽序は右賛善大夫、貽庥は大理評事、貽広は童子出身。貽序は喪に服す許可を得て、天禧初(1017年CE)孫の宗諒が秘書郎に録された。
  • 琪は文学の才があり使府での実務三十年で人情・吏術に通じ、宰相在任中は多くの請願を面前で退けたため怨みを買うこともあった。貽序は『冊府元亀』の編纂に加わり筆札に優れたが、事件に連座し復州副使に左遷され殿中丞で卒した。