宋史卷二百六十四 列傳第二十三 宋雄

出自と生涯

  • 幽州の人。琪と同時代に名を馳せ「二宋」と称された。契丹に仕えて応州従事。雍熙三年(986年CE)宋軍の北伐に伴い、節度副使艾正とともに城を挙げて降伏、正は本州観察使、雄は鴻臚少卿同知州事、光禄少卿に改まる。
  • 均州・唐州の知州を歴任し、河陰の屯兵護軍として河渠の利害に通じたことから汴口の護督・水勢の均節を命じられ漕運を助け、太子詹事、光禄少卿、将作監に遷り、赴任先すべてで職務を全うし公私に頼られた。
  • 文史に渉猟し談論を善くし気節があると士流に推された。景徳元年(1004年CE)卒、享年七十六。子の可久が太常寺奉礼郎に録され、喪に服す間の禄を給された。

史論

  • 薛居正以下、宰相の位にあった者は四人あるが、その始終出処は各々異なる。朗州の亡卒が僧を巻き込もうとした際、居正は事態を緩め冤罪を防いだ。沈倫は呉越からの帰路、揚泗の軍儲を飢民に貸与することを断行し「和気が豊作を招く」と説いて実現させた。太祖が書史を求めるたびに盧多遜は先んじて用意し的中する答えを重ねた。宋琪は初め程羽・賈琰に抑えられ、次いで多遜に忌まれたが、後に員外郎から尚書まで一年で四遷し宰相となった。
  • これらを見れば、道を守り福を得た者は幸運ではなく、投荒に処せられ死んだ者も不運ではなかったことが分かる。宋雄は持論に優れ気節があったが琪と名を並べながら爵位が及ばなかったのは境遇の違いによる。ああ、古来才徳を抱きながら下僚に沈み一生を終えた者は多い、宋雄だけがそうだったのではない。