宋史卷二百六十四 列傳第二十三 盧多遜

盧多遜(?–985年)、懷州河内の人。父の億も学者官僚であった。博学強記で謀略に富み、太宗初に宰相となったが、趙普と対立し秦王廷美との交通が発覚して大逆不道の罪に問われ、崖州へ流されて没した。

年表(10件)

出自と生涯

  • 懷州河内の人。曾祖得一、祖貞啓は共に邑宰。父億(字子元)は篤学孝悌で聞こえ、明経に及第、新郷主簿から再度進士に及第し校書郎集賢校理。晉天福中著作佐郎、鄆州観察支使として節帥杜重威の驕慢な貨賂政治の中でも清介を守った。
  • 景延広の天平鎮に掌書記として表され、留守西洛の際も判官。国用窮乏で民財を軍費に充てる際、延広が更に利益を上乗せしようとしたのを「公は将相の位にありながら民から利を貪るのか」と諫め止めさせた。
  • 漢初、魏王承訓の開封尹の下で水部員外郎充推官。侍衛諸軍の驕横を朝廷が黙認する中、軍士成美が塩を運ぶ驢馬を巡り無実の平民孟柔を誣告した事件で、億は事情を漢祖に伝え孟柔を釈放させた。周初、侍御史。
  • 漢末の兵乱で法典が散逸した際、大理の重写した律令格式統類編敕を、刑部員外曹匪躬・大理正段濤とともに詳定を命じられ、京兆府と五府の格上げ、諸門の名称制定、避諱による字の修正(二百十四字)など大規模な法典整備を行い『大周続編敕』としてまとめた。
  • 知雑事、左司員外郎、主客度支郎中兼弘文館直学士。世宗の山陵判官、河南令。宋初少尹。子多遜が知制誥に任じられると、億は自ら上章して辞職を求め、乾徳二年(964年CE)少府監致仕。
  • 多遜は顕徳初進士及第、秘書郎集賢校理、左拾遺集賢殿修撰、建隆三年(962年CE)知制誥、祠部員外郎。乾徳二年(964年CE)権知貢挙、四年(966年CE)再度知貢挙、六年(968年CE)史館修撰判館事。開寶二年(969年CE)太原征討に太原行府事として従い、常山幸行にも権知鎮州。
  • 三年(970年CE)三度目の知貢挙、四年(971年CE)翰林学士、六年(973年CE)江南使者として帰還後、江南の衰弱ぶりを報告し征討を献策、五代史修撰にも従事。中書舎人参知政事、外艱の数日後に起復、時政記の復活を扈蒙の請願で担当。金陵平定で吏部侍郎、太平興国初(976年CE)中書侍郎平章事、四年(979年CE)太原平定で兵部尚書。
  • 博学強記で謀略に富み、太祖が書史を求めると多遜は事前に吏に取り寄せる書を告げさせ、一晩で読み込み問答に淀みなく答えたという。趙普と不仲で、翰林学士として召対のたびに普の短所を挙げていた。普が河陽に出鎮した後、太宗即位で普が少保として復帰、普の子承宗が燕国長公主の娘を娶り澤州から帰任した際、多遜が急いで任地に戻すよう画策したことで普は激怒。
  • 普はかつて自らの弁明(皇弟開封尹への疑いを晴らす上表、昭憲皇太后の顧命への関与)を太祖に密封していたが、その書を太宗が発見したことで復権、承宗を京師に留め普を再び宰相とした。多遜は不安を強め、普の再三の引退勧告にも権位に固執した。
  • 堂吏趙白を通じ秦王廷美と交通していた事実が発覚、太宗が詔でその不忠を糾弾、兵部尚書に降格の後、翰林学士承旨李昉・学士扈蒙・衛尉卿崔仁冀・膳部郎中滕中正らに雑治を命じ、文武百官七十四人が朝堂に集い議定。太子太師王溥らの奏議は「多遜は宰司にありながら親王と結び君父を呪詛した大逆不道、律により誅斬すべき」とし、秦王廷美も同処分を求めた。
  • 詔書は多遜の「深負倚毗」「包蔵姦宄」を糾弾しつつ、「かつて重位にあった」ことを考慮し族滅を投荒(流刑)に減じ、官爵・三代の封贈・妻子の官封をすべて削奪、一家親属を崖州に配流(大赦でも量移せず)、朞周以上の親族は辺遠州郡に配流、部曲奴婢は放免とした。中書吏趙白、秦王府吏閻密・王継勲・樊徳明・趙懐禄・閻懐忠は都門外で斬られ、その親族も流配。
  • 閻密は殿直として秦邸に隷し不法を働き、王継勲は廷美の側近として声妓を求め賄賂を貪り、徳明は趙白と親しく機事を廷美に伝え、懐禄・懐忠も密使として呉越王への贈物などを担っていたことが露見した。多遜の墓が河南にあったが、事件発覚の前夜に落雷でその林木が全て焼けたという逸話も伝わる。
  • 多遜は海外へ流される際、部送者への上表で謝意を示した。雍熙二年(985年CE)流所で卒、享年五十二。詔でその家族を容州に、のち荊南に移された。端拱初(988年CE)子雍が公安主簿に録され、没収されていた懷州の先塋も返還された。雍の死後、諸弟も特赦で州県官に任じられた。
  • 億は生前の質素な暮らしを守り、多遜が顕貴となり賜与が優厚になったことを喜ばず、親友に「儒素の家が急に富貴を得た、いつまで持つか分からない」と語っていたといい、多遜が没落したことで人はその見識に感服したという。咸平五年(1002年CE)雍の弟寛が襄州司士参軍に録され、寛の弟察は景徳進士及第で州掾を授かり、大中祥符二年(1009年CE)簿尉に改まり、三年(1010年CE)多遜の遺骨を襄陽に改葬した際に銭三十万を賜り、四年(1011年CE)孫の又元も襄州司士に録された。