宋史卷二百六十四 列傳第二十三 沈倫

沈倫(字は順儀、?–987年)、開封太康の人。もとの名は義倫。太祖の藩邸以来の旧臣として財貨出納を清廉に管掌し、宋初に宰相を務めた。清介醇謹な人柄で知られる。

年表(8件)

出自と生涯

  • 開封太康の人。もとの名は義倫、太宗の名下の字と同じであることを避けて倫と称した。若くして三礼を嵩洛の間で学び講学で自活。漢乾祐中、白文珂の陝州鎮に依り、周顕徳初、太祖が同州節度の宣徽使であった頃、昝居潤の推挙で幕府に留められた。
  • 太祖が滑・許・宋の三鎮を歴任する間すべて従事として留後の財貨を管掌し廉潔で聞こえた。周の禅譲後、宋州観察推官から戸部郎中に召され、呉越への使者として派遣され十数の便宜策を献じすべて採用された。
  • 揚州・泗州経由の帰路、飢饉に苦しむ民のため軍儲百余万斛を秋の新穀返済で貸与することを郡長吏とともに献策したが朝議が難色を示す中、太祖に直接「国家が廩粟で民を救えば和気を招き豊作となる、水旱は別問題」と説き、貸与を実現させた。
  • 建隆三年(962年CE)給事中、翌年陝西転運使。蜀征討に随軍水陸転運使として従い、王全斌・崔彦進らが民の財宝を奪う中、倫は独り仏寺に宿し粗食で過ごし珍異な献上品もすべて拒み、帰還時の荷物は書籍数巻のみであった。太祖はこれを知り王全斌らを貶し、倫を戸部侍郎樞密副使に任じた。
  • 太原親征に大内都部署判留司三司事として従い、自邸が粗末であっても平然と過ごしたが、権要が禁を犯して秦隴の巨木を私邸建築に流用する事件が露見した際、倫自身も母のため仏舎を建てる木材を購入していたことを自ら申告、太祖は笑って「お前は法度を越える者ではない」と述べ、逆に中使を遣わし図面通りに整備させたが、倫は使者に狭小な規模を望むと伝え、太祖もその志を尊重した。
  • 開寶二年(969年CE)母の喪から起復、六年(973年CE)中書侍郎平章事集賢殿大学士兼提挙荆南剣南水陸発運事。雩祀(西洛への祭祀行幸)で東京留守兼大内都部署、太平興国初、右僕射兼門下侍郎監修国史、太原親征では留守判開封府事、師の帰還後左僕射。
  • 五年(980年CE)史官李昉・扈蒙が撰した『太祖実録』五十巻を監修して献上し、襲衣金帯を賜る。六年(981年CE)開府儀同三司。同年病が発症し多く休職、盧多遜の事件発覚前に既に致仕を上表していたが、翌年多遜が敗れると同僚として監察不十分を責められ工部尚書に降格、子の都官員外郎継宗も父の蔭を理由に朝籍から除かれた。
  • 病中に再び辞表を上げ左僕射致仕を授かる。太宗は倫が国初以来の旧臣であることを考慮し継宗の官を速やかに復した。雍熙四年(987年CE)卒、享年七十九、侍中を贈られた。
  • 清介醇謹な性格で、車駕が外出する際はしばしば留守を任された。釈氏の因果を信じ、盛夏に蚊に刺されるままにして童子が扇で追い払うと叱った逸話がある。宰相在任中、飢饉の年に郷人が借りた穀物千斛近くを、翌年すべて借用証を焼いて帳消しにした。
  • 微賎の頃、閻氏を娶るも子がなく、妾田氏が継宗を生んだ。顕貴後、閻氏は正室の座を田氏に固く譲り、倫は太康に閻氏のため別邸を建てたため田氏が正室となり、士大夫はこれを非としたという。
  • 初め有司は諡を「恭恵」としたが、継宗が上言し「先父は文学出身でなくとも集賢殿修史の職にあった」として薛居正の「文恵」、王溥の「文献」を先例に「文」を含む諡への改諡を求めた。太常礼儀院判官の趙昻・考功の張洎が反論し、「恭恵」は諡法(謹事奉上、執礼御賓など「恭」の徳目、および慈民好与など「恵」の徳目)に照らして倫の実績にふさわしいとし、集賢・国史の職も必ずしも文才による任命ではないと結論、「恭恵」の諡が維持された。

継宗(世卿)――沈倫の子

  • 倫が樞密副使の頃、蔭補で西頭供奉官、倫が宰相になると水部員外郎に加朝散大夫、都官職方知浚儀県、屯田郎中、単州知事を経て京東計度財賦使に。濮州の銀課・鄆州節度の薬物配属など民の負担となっていた制度の弊害を上言して除いた。
  • 至道末(997年CE)淮南転運使、貴家の子として吏務に倦み、病により将作少監致仕。東封(泰山封禅)に扈従し職方郎中、礼終えて太僕少卿判吏部南曹、光禄少卿判三司三勾院を歴任。
  • 産業経営に長け養生を重んじ、酒は飲まず音律も好まなかったが賓客をよく招き終日宴を張った。大中祥符五年(1012年CE)卒、享年五十五。子の惟温・惟清・惟恭は将作監主簿を録され、惟温は後に秘書丞、惟清は密王の娘(宜都県主)を娶り内殿承制に至った。